続・恋愛の「責任」

 スピノザという人は所謂「倫理」について一風変わった思考をした人である。主著『エチカ』においてその概要は述べられているが、今回「恋愛」一般の問題を考える前に、その内容に少し触れておこう。
 スピノザは、こう考えた。
 この世界に人格的な神などは存在しない。彼の考えでは、「世界」と「自然」と「神」は同義である。人格神とは幼い頃の家族体験などによる想像物に過ぎない。また、彼は自由意志を否定した。この世は全て自然因果性(神)によって規定されている。ただ、人はそのような関係性があまりに複雑な為に「自由」のようなものを想定する(または、無意識的にそのような拘束から逸脱する為に)。人間の行為や思考や、そのほか全てのものは、自然因果性を越えることはできない。しかしながら、我々はこの自然因果性を“認識しようとする”ことはできる。このことこそが「神を愛する」ということであり、「倫理」という謂なのだ。

 前回、私は「恋愛」にはその積極的根拠を語ることができない故に、絶対性を求めることができず、その不可能であることを解説した。が、そもそもこの論点にはそれ以前の落とし穴が存在している。端的に言えば、それは恋愛そのものの「動機付け」である。我々は、「いかにこの恋愛を成就させるか」を問う以前に、「なぜこの恋愛でなければならないか」を問わなければならない。一般的に言えば、我々は何故無数にいる異性の中から、“この異性”を選ばなければならないのか、という問題である。形式論理学でいう、この、thisnessの問題により、実は「責任」の問題は、その発生時点において破綻している。どういうことか。
 卑近な例を考えてみよう。例えば、自分の父がガンにかかった、という場合、人は「なぜ私の父がガンにかかったのか?」と問う。これは内省である。しかし、実の所、「私の父」は「私の父」だからガンにかかったのであって、その理由は別にあるわけではない。つまり、「私の父」と「ガン」は、その、そもそもの属性を離れて考えることはできない。よって、この問いは、「なぜ私の父は私の父なのか」という問いに変換できる。大事なことは、日常において私たちはこのような疑問を抱きうる場面において、このような問題の遡行を禁じることによって、逆説的に「なぜ」という疑問詞を支えている、という点だ。そして、この種の問いは、往々にしてはじめから答えを期待していないような場面において発せられていることにも注意しておこう。
 実は恋愛において、その発生に「根拠」(或いは「必然性」と言い換えても良いだろう)など、存在していない。それは、恋愛の対象に対して、「なぜ彼女は彼女なのか」という問いを発するのと同型だからだ。これは前回にも述べた事だが、だからこそ、古典的な恋愛劇には小道具や劇的な演出(血縁関係や強制的な接触)による、もっともらしい恋愛の意味づけが行われる。

 実は、人は決して自然発生的な現象に根拠を与えることもできず、したがって、責任を持つこともできない。が、このことは、現実的なレヴェルで恋愛を放棄することや、それにまつわる責任を放棄することには繋がらない。何よりも、人は論理的な次元で恋愛したりはしないからだ。それに、そのような論理的問題を認識していることと、責任を放棄することは別な問題だと言わねばならない。人は、ホッブズの言うように、与えられた共同体と道徳の中で結果的に上手くやっていく場合の方がむしろ多い(スピノザは、当時通商の関係があった徳川幕府時代の日本人について、神もいないのに、現に倫理的に立派である、と言っている)。
 我々は、このように与えられた「恋愛」(「自然」)に抵抗することはできない。しかし、そのような抵抗の形を認識しようとすることはできる。

 恋愛の責任は、このような不自由さを認識することによって、自覚され、実践される。
 それこそが、恋愛の「倫理」なのだ。

 
 追記:前回、私は(恋愛における)「主体と責任」の関係性が近代人に特有であることを述べた。自我の確立と近代性の成り立ちについては、また、別に場を設けて論じることにしよう。
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by ecrits | 2005-09-27 03:24 | 思想
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