美学化に抵抗する為に/ラーメンズ/坂口安吾

 叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。  坂口安吾『日本文化私観』

 松山の映像作家を目指す若い専門学生にラーメンズについて何かしゃべってくれ、と頼まれた。生憎私は人にしゃべって聴かせるほどのラーメンズファンでもなければ、研究者でもない。彼らに聴かせて身になることなど、おそらく一つもないのではないかと思っている。私が言下にお断りすると、いや、何でもいいのでしゃべれ、と言う。以前にもこのブログで書いたが、私はラーメンズをそれほど評価していない。自分の関心に引き付けて読むから、まだ有難みも出てくるけれど、やはり、サブカル的なものはその次元で評価の対象になればいいのであって、所謂大文字の「思想」とか何とかと結び付けて考えるべきものではない。もっとも、「思想」などという胡散臭いものよりラーメンズのほうがものを考える上でリアリティがある、という若い人たちの気持ちも分からないではないのだが。
 「暴力的に読み替えたラーメンズしか話しませんよ」と、エクスキューズをつけておいて、しぶしぶ引き受けた。それ以来、約一週間にわたって彼らの作品をヴィデオでもう一度見返しながらノートを取る作業を始めた。厳密な意味で「作品」にこだわると、書かれたものや造形されたもの、パフォーマンスや他のグループとのコラボレーションなど、裾野が果てしなく広がっていくから、今回は定期公演の現段階で映像化されている作品群に対象を絞ることにした(つまり『Home』から『Study』までの10作品)。そこで私が再発見したのは、私が今日「文学」という言葉で考えさせられている内容と意外にもぴったり不即不離の関係であった。これは私にとって、新鮮な驚きだった。ここでその全てを語ることはできないが、文学とその周縁をめぐって、ラーメンズの「方法」を少しずつInterpretation(解釈=通訳=演奏)していこう。

 ラーメンズの公演を観ていると、時折、複数のコードが独自に展開され、結果的に、それが物語的な話の本筋を乱してしまうような場面に遭遇することがある。例えば、「ドーデスという男」(『FLAT』収録)のドーデスの病気は主人公の縁談とは無関係だし、「アトムより」(『ATOM』収録)の“お前”の口癖は二人の散歩のタイミングを阻害し続ける、といった具合に。我々はこのことをどう解釈すべきだろうか。そこには、意外に大きな問題系が隠蔽されていると思われる。
 彼らが演じる演目の中で、登場する二人が友人関係である作品は「器用で不器用な男と不器用で器用な男」(『鯨』収録)を除いて、その友好関係がどこかしら破綻している場合が多い。前出の「アトムより」にいたっては、結局、二者間の交友関係が初めから存在していない。“富樫くん”という主人公と“お前”は、“お前”がロボットだったというオチからして、初めから巧妙に偽装された主従関係に過ぎず、そこには「会話」がない。あるとすれば、それは「自分が話すのを聴く」といったような一方通行の内省だけであり、「他者」と話す、というコミュニケートの関係は無視されている。余談になるが、この作品において、二人の友情を物語的に語る者は、コミュニケーションの基礎的な慎ましさが甚だしく欠落していると思われる。「他者」とは、常に発話のポリフォニー(バフチン)を曲解し続ける人間であり、それは友人とて例外ではない。むしろ、人と人とはそのように歪曲した関係性こそ自然なのであり、安易に他者と自己とを同一視して語りたがるものは、そのことによって逆説的に自閉的なモノローグに囲い込まれてしまう。では、小林健太郎が企図した複数のコードの衝突による雑音とは一体何を意味するのだろうか。

 坂口安吾は『日本文化私観』において、文学とは生存それ自体が孕んでいる孤独から出発するものだ、と言っている。どういうことか。
 彼が「孤独」という言葉で考えているものは家庭であり日本だった。
 我々は日本に生まれついたが故に日本人であるしかなく、家に生まれついたが故に家庭人であるほかない。そこには奇妙な「うしろめたさ」がある。なぜなら、我々はそれらの基本属性を離れて物事を考える事はできないからだ。しかし、彼はこのような絶対的な「孤独」を否定的なニュアンスで捉えていない。文学が帰るさきは家であれ家庭であれ日本であれ、そんなことは重要ではない。そうではなく、そこに回帰しようとする「うしろめたさ」こそが文学のふるさとなのだ。「うしろめたさ」を回帰に伴う感傷で処理してしまえば、それは結果として単純な保身に堕してしまう。そうではなく、「うしろめたさ」を文学が生まれてくる起点として、積極的に偏差を捉え返そうと意識するとき、そのような地点から書かれる文学は常に美学的回帰に対する実質的な抵抗力となりうるからである。そして、彼が闘争していたものは実は「家庭」でも「日本人」でもなく、実は「侵略戦争」であり「ファシズム」であった。ナショナリズムほど容易に発生し、感染力の高い思想は他にない。だからこそ、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争中の「美しさ」に彼は惚れ惚れとしながら、しかしその実、思考する地点を彼は文学によって手放すことがなかったのだった。

 ラーメンズの作品を鑑賞していると、私はしばしば坂口安吾が感じたような「孤独」を体感することがある。それは、物語化の欲望とは遠く離れたものだ。「音遊」(『雀』収録)は12音階と長調のメロディに抵抗する試みであり、「新噺」(『ATOM』収録)は落語への抵抗のかたちである(落語は自己のズレ-自分の声が録音されたテープを聴いたときに感じる違和-を象徴している)。
 ラーメンズの舞台は、このような視点において、そのまま舞台批判であるともいえる。演じられるが、決して消えないノイズとして物語の進行を阻止する出来事は、政治の美学化に抵抗する美学の政治化(ベンヤミン)である。大切なのは、ラーメンズに対してオタク的囲い込みをしようとする美学派に対して、現実的にも彼らの作品自体が「批評」の形態を成している事ではなかろうか。 
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by ecrits | 2005-10-21 01:36 | 批評
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