これは決して恋愛ではない~行定勲『春の雪』鑑賞後~   「松山シネマ倶楽部」さんへ

 実に分かりやすいイメージの連鎖によって撮られた映画である。
 主人公松枝清顕(妻夫木聡)は、貴族の名門松枝家の嫡男。一方、ヒロインの綾倉聡子(竹内結子)は斜陽の伯爵令嬢。綾倉家は恩義から松枝家にプライドを蹂躙され、ひそかな復讐心を抱く。そのことは、清顕と聡子を肉体関係にさせることによって実現されるが、清顕は聡子に対して自分の感情を上手く表現することができない。遅々として進行しない二人の関係。幼馴染みの二人は、やがて綾倉家の思惑通り恋仲になってゆく。しかし、ふとしたきっかけから綾倉家に宮家の洞院宮治典王(及川光博)との縁談が持ち上がる。清顕は素直になれない自分の気持ちから一時は聡子を突き放すが、それはやがて手に入れられないものへの飽くなき欲動として復活するだろう。二人は人目を忍んで逢瀬を重ねるが、聡子の妊娠という事件により、関係は決定的に亀裂を生じはじめる…。

 冒頭に反復される「春の雪」というモティーフは、「蝶」「夢」「破り捨てられた手紙」「セックス」「妊娠」「喀血」「桜」とかたちを変えて変奏され、物語に一貫した“欠落”を印象付けている。さらに、近代文学の素材として欠くことのできない「自意識」「処女性」「博愛主義」「病」などがふんだんに盛り込まれていて、まさに“その筋”では一級品。しかし、今日我々がこの映画で目の当たりにするのは、そのような近代の幻想ではなく、むしろそのような「無意識の制度」が孕んでいた甚だしい暴力性である。
 「それ以上が欲しい」と口癖のようにつぶやく主人公は、親友の本田(高岡蒼佑)に「はじめから金も権力も歯が立たないバケモノを相手にしたのだ! 貴様は幻を見た」といわれても気付かず、「今オレはやっと本当に欲している物が分かった」とのたまう―余談になるが、「本田」は三島自身の分身として描かれており、剣道部に所属し、同性愛を連想させていたことは興味深い―。しかし、彼は全く理解しない。「バケモノ」とは自分自身であり、はじめからどこも何者も障害ではなかったことを。そしてまた、彼を悲劇の主人公に祭り上げてしまう「物語」こそが近代という“二重の病”なのだ。そしてそれは結果として聡子を堕胎に追い込む。

 恋愛と物語は異なるものだ。
 端的にこれは恋愛の映画として成立していない。他者を把握できない恋愛ははじめから破綻しているからだ。
 繰り返すが、この映画において「恋愛」は扱われていない。私が感じたのは、この程度の感傷癖に過ぎない自意識を未だに恋愛と捉え違えてしまう精神の幼稚さだ。彼らは未だ近代から脱却できていない。いや、むしろ、近代に退行している。
 考えることを放棄し、美しい妄想に浸ることの快楽を要請するこの映画は、右傾化する社会を象徴するものとして記憶に残るものだった。

 否定的な要素ばかり並べていても仕方がない。
 妻夫木聡の演技は最悪だが(人間性の醜悪な部分だけが好演されているように感じた。それはそれで成功かもしれない)、清顕の祖母を演じた岸田今日子は、この映画の唯一の救いだった。出演シーンはわずかながら、これだけの印象を残す存在感は、流石に他の役者の及ぶ所ではない、といったところか。
 及川光博の演技も素晴らしかったが、私にはどう見ても鳥肌実に見えて仕方なかった。
 宇多田ヒカルのテーマ曲はMiscarriage(難産=誤配)の印象が拭えないが、クレジットまで見終わって観客は、ふと思うのだ。―はて、これが『Be My Last』だろうか?―と。
 いい加減、我々はこのような反復から眼を覚まさなくてはならない。
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by ecrits | 2005-11-02 03:50 | 批評
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