芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅶ)

 『大ガラス』の本格的な解読作業を行う前に、『グリーンボックス(GB)』に収められたデュシャンのメモに目を通しておこう。この中でデュシャンは、「花嫁」と独身者たちの物語を書き記している。あらすじをまとめると、まず独身者たちは「花嫁」を誘惑しようと試みる。そして彼らの頭部から噴出した「照明用ガス」は漏斗(「篩」)を通過し、その後「眼科医」の鏡の反射によって、上部の「花嫁」の領域へと上昇し、彼女を裸体にしようともくろむ。一方「花嫁」は独身者たちによる裸体化と平行して、欲望の想像によっての自発的な裸体化を進める。そして「花嫁」は性腺の分泌液によって、そして独身者との性的快楽への欲望によって完全な裸体化を目指す。しかし、両者の出会いと交合は果たされないままで終わる。
 この奇妙な物語において明確な出来事の進行は、独身者と「花嫁」の欲望による出会いが果たされなかったことである。デュシャンはその理由については触れていない。それでは、何故それは実現し得なかったのか。『グリーンボックス(GB)』のメモは、奇妙ではあるものの、大まかに捉えれば、恋愛についての物語である。したがって、この問いは次のように変形できる-何故両者の思いは通じなかったのか。そして、それを妨害したものは何か、と。
 ここで思い出してもらいたいのが、この章の冒頭で触れたデュシャンの言葉である。それは「四次元の物体の三次元への投影」であるのだが、この言葉の意味する事を推察するには、次元に対する厳密な-つまり単なるイメージによって捉えるのではない-理解が、ある程度は必要と思われる。
 では、厳密な(ここではあえて「学問的な」としよう)意味における次元とは何か。それを明らかにするために、フランスの数学者ポアンカレによる定義を引用してみよう。

 もし、物理的連続体Cを、すべてが互いに他の要素と識別し得るような有限個の要素からなる切断によって分割できるならば、われわれはCを1次元の連続体と呼ぼう。もしCが、それ自身が連続体であるような切断でなければ分割されないのであれば、Cは多くの次元を有するという。もし、切断が1次元の連続体ならば充分だというときには、Cは2次元を有するという。2次元の切断で充分ならばCは3次元を有するという。以下、同様である。


 切断が3次元の連続体ならば、その物理的連続体は4次元を有する。そしてこれは5,6次元にも、そして、より高次元に対しても拡張可能である。また、裏を返せば、これはn次元の存在者はn+1次元の連続体を、あくまでn次元の空間内でしか認識し得ない、ということである。したがってn+1次元の連続体がn次元において認識可能である場合、その連続体はn次元内での切片として-つまりn次元の連続体として-のみ、n次元の存在者に認識される。例えば三次元の連続体が二次元の空間を通過する際、その連続体は二次元の存在者にとって、あくまで面の連続の-したがって連続体の形によっては、面の形状の連続的な変化の-投影としてのみ捉えられる。前章で、四次元が不可視であると述べたのは、この意味においてである。

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   ↑所謂、ポアンカレ断面図の一例。上図(a)は、準周期解についてのポアンカレ断面図。中緯度にカオス混合領域が存在し、 その両側に不変トーラスが閉じたループ状になっている。
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by ecrits | 2006-01-07 07:12 | 論考
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