しらかたみおへの手紙

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 親愛なるしらかたみお君へ。

 君が新風舎の第11回えほんコンテストで金賞を受賞した『まてまて!きつねのおめん』がこのたび君の二作目の著作として出版の日を迎えることになった。いや、実際には、そのことを僕は伝聞した。元来のものぐさな性格だから、僕は君にお祝いの言葉一つかけるにしても、相当の時間を要してしまった。どうやら、もう熱は冷めてしまっていたらしい。周囲は何食わぬ顔で俺を見た。俺は粛々とした顔だったかもしれないが、雑誌やTVですでに公然の事実だった君の大作の刊行に、どうやらまた俺は乗り遅れてしまったらしい。われながら間の悪いことだと思う。甘えた顔で“スンマセン”もないものだが、十年前からこれだけは変わっていない。悪癖だと思う。
 もう十年になるのかな。たしか、君と僕とは従兄弟だった。あれはまた、何でそんなことになったのか皆目見当が付かないが、当時中学生だった僕たちは、真顔でクラスメイトにそう言って回った。本当に信じている友人もいたらしい。惚れた女を自らに引き付けて誇大妄想するのが当時の二番目の悪癖で、これはしばらくたって完治した。自分の情けなさに気が付いたからだ。気が付いていなければ、今でも同じことをやっていただろうと思う。恐ろしくて身震いがするが。
 人生とは面白いものだ-こんなことをしたり顔して言えるほど、僕も君ももう大人になってしまった-。田舎の中学生だった二人のうちの一人は、そのままに自己の才能(あるいは「卓越した修練の下に」とでも記そうか)を開花させ、だらしのないほうの一人は、どこでどうしてそうなったのか、左翼の活動家とかいったトンデモナイ肩書きをくっつけられて批評で口を糊する役回りを与えられている。たしかにあの時君と僕とは友人だった。今でも友人にかわりはないが、あの時とは趣きも若干変化しているようだ。僕はそのことの事実を今厳粛に受け止めている。
 しらかたみお君。これは僕の君へ送る手紙だ。もう、あの時書いたような手紙は二度と書けないかもしれない。しかし、偽らざるものを残しておく。それだけは信じておいてほしい。

 中東を民主化するという噴飯ものの大義名分の名の下に始めた馬鹿な戦争に日本が加担し、テレビゲームのようにスカットミサイルが飛び出して、命中するのをテレビの画面越しに眺めていたとき、僕は君に出会っていたことになる。今になって思うと、どうもそのような政治的な背景と君との印象がぴったりと符牒しない。おそらく、僕は(そしておそらくは君も)極めて鈍感だったのだろう。僕は目の前で起こっている戦争を知らなかった。僕が知っていたのは電気グルーヴという古今未曾有の狂人が飛び出してきて、テクノという試みを始めたことだけだった。そう、まさに「始めた」。テクノはあったかもしれない。しかし、大文字の「TECHNO」は彼らによってはじめて「テクノ」になった。マルクスは哲学とは既存の言葉の意味を塗り替えることだ、と言っている。その意味では僕の中にテクノという哲学が芽吹いていたのが当時だったと記憶している。『Selected Ambient Works 』を1000回聴いた。第1回(だったと記憶する)フジロックでリチャードを見て卒倒した。今はなき地元のクラヴに通いつめた。全てが新鮮だったが、僕はその感覚を忘れていない。「批評」といい「思想」という。難解な顔をする。しかし、そのときの“Trance”の感覚がないものは,はじめから死んでいるも同じことだ。批評はそのような場所以外で生成されるはずがないから。
 君は筋肉少女帯を聴いていた。こう書いてみると、やはり懐かしい感じがする。僕はサブカルチャーを意図的に無視し続けてきたが(少なくともものを書くレヴェルでは)、当時のナゴムカンパニーがある種の特別な熱意を持っていたことは素直に体験として認めざるを得ない。もちろん、それが良いか悪いかは別として。90年代初頭には、ハイカルチャーまたはローカルチャーという識別がまだ可能で、それが構造的に対概念を為していた。よって、ローカルチャーによる企図的な逆視をもってハイカルチャーを批判することが可能だった。現在の状況を考えてみれば、これは驚くほかのない状態だ。現状分析のようなことばかり言ってても始まらない。そんなことはヒマな連中に任せておくことにしよう。
 僕は覚えている。当時大槻モヨコ名義で出されたプレスのいくつかを君と聴いたことを。いや、しかし、それも僕の記憶違いかもしれない。その後二人は別々に歩み出して、結局僕はドラッグやら何やらでずいぶん頭を悪くした。満足に覚えていることなど、何一つない。断っておくが、これは感傷ではない。現実的な障害だ。

 考えてみれば、君と僕とが東京で生活していた時期も重なっている。重なっているはずだ。僕は時折、それは本当に時折だが、君のことを思い出していた。某月刊文芸誌の創刊パーティーでしまおまほちゃんと話していたとき、僕は彼女に君の印象を感じていた。発話のタイミングや、そのトーンを。困ったことに、友人の癖は何かにつけて記憶を突き始めてしまう。連絡の一つも取ればよかったのだろう。知人から君が頑張っているらしいことを聞いただけで、それで僕は満足してしまっていた。その頃の僕は文学と差別とセクシュアリティの問題を抱えていた。原稿の依頼もボツボツ来始めた。何とかやっていけるような気もしていた。

 結果論になるが、君も僕も、こうして松山に帰ってきた。僕はいま、言論とは何の関係もない仕事を主にしている。君はいつの間にか絵本作家になっていた。あの頃に抱えていた問題は、ほとんど何も解決していない。ただ、現実的に弊害は発生し、被害者は増え続けている-宗教・人種・戦争・ジェンダー・人口・性暴力・エイズetc-。それら現実に向き合い行動することを自分は今の課題だと思っている。問題に最終的な解決などない。「最終的」な解決はイデオローグでしかないからだ。“困難な現実がある”。現実とはただそれだけのことだ。何の神秘的な要素もない。この世界に究極的な「意味」があるように思っている連中は形而上学を復興させているに過ぎない。思想的には、それはカント以前への退行を意味している。暴力も性も、君や僕の本当に身近にある問題だから。
 馬鹿に自分のことばかり書き過ぎた。これでは祝辞にもなにもなってやしない。申し訳ない。
 今の僕は前に書いたようなことを考えている。それは、もしかしたら今の君とは何の関係もないことかもしれない。君は「情緒あふれる」松山が好きだ、と言った。でも、それは間違っている。僕らの育った道後という街の情緒は、昭和以降に地方産業制を唱えた幾人かの官僚によって意図的に作られたものだから。道後温泉はそもそも地元の小規模な湯治場だった。まあ、いまの道後温泉の泉質を考えれば、そんなことは本当にどうでもよい問題かもしれない。あれはただの形骸だから。温泉じゃない。
 僕は君を心から応援する者の一人だ。ただし、君があの頃のように本質的に徹底的にラディカルに突き進む限りにおいて。あの頃のような君の姿が、昔もいまも僕を勇気付けていることを君に知っておいて欲しい。君の健康と更なる活躍を心より祈る。

     2006年2月23日 黒川寛之

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by ecrits | 2006-02-23 05:55 | 友人
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