芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅳ)


  第3章『大ガラス』以後

 ダダイスムに若干のタイムラグを伴って現れた芸術運動、シュルレアリスムの次元概念の受容は、『大ガラス』以前の、神秘的色彩を帯びたものに近い。そもそも多くの批評家によって指摘されている点ではあるが、シュルレアリスムは、その表面上の前衛的な印象とは異なり、基本的にはロマン主義の末裔である。例えば、文学におけるオートマティズム(自動筆記)や、絵画におけるデカマルコニーやフロッタージュにしても、主体的な介入を極力排除するという表現方法の違いであり、結局は劇的な効果を狙ったものに過ぎないのである。つまり、作品の美的判断自体は、旧来の芸術と何ら変わりがないのである。
 シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンは次のように書いている。

 生と死、現実と幻想、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、肯定が矛盾として知覚されなくなるような、ある一つの精神の点が存在することを信じるべきだと、全てが示唆するようである。

 「精神の点」という表現からもわかるように、ブルトンもまた還元主義の性格を持つ一元論を主張している。したがって、これはキュビスムの次元把握と大差はない。ただキュビスムと異なる点として、キュビスムの次元把握が「知覚しえないものの知覚」、つまり三次元的な認識を越えた、外部の空間に向けられていたのに対して、シュルレアリスムにおける異次元が、無意識、つまり自己の隠された内面への思考であることが指摘されよう。シュルレアリストは、主にフロイトの精神分析を援用し、無意識の解放を主張したのである。ただし、実際には彼らはフロイトの理論を誤読していた。たとえば、フロイトはダリとの会談で「古典的な絵画の中に、私は無意識を探している。そしてシュルレアリスムの中に意識を探している」と語ったという。また、ラカンは一時期シュルレアリスムの運動に理解を示していたものの、やはりその後は袂を分かっている。特に、ラカンの有名なテーゼである「無意識は言語のように構造化されている」が、文法などの一連の言語規則を破壊しようとしたシュルレアリスムと相容れないのは当然の帰結でもあった。
 また、シュルレアリスムは夢に特権的な対象としての地位を与えている。しかし、彼らの言う無意識とは、言表行為や夢の内容の解読を経て発見されるものである。しかし、これは端的に誤りである。確かに無意識は性的なものであるのだが、それが現れているのは夢の内容ではなく、夢の作業(置き換え、圧縮)においてなのである。つまりシュルレアリスムは、夢の内容(これを一般に潜在思考と呼ぶ)と、その書き換え作業(無意識)とを履き違えているのである。
 ならば、シュルレアリスムの作品における性的なテーマは、無意識に対するイメージによる産物であり、それはいたって主体的な選択によるものである。よって、シュルレアリスムでの無意識と理性(意識)の二元論は、それが意図的に企図されたものである以上、無意識の理性化として一元化されるだろう。そして、通常は認識不可能であるが故に理性(意識)へのアンチテーゼとして存在しえた無意識を、主体的な認識によって補足するという行為は、「知覚しえないものの知覚」を試みたキュビスムと同様、神秘主義との近接性を自ら証明していることになるのである。   (完)
                                 2006/7/4


 ※本論考『芸術における異次元』は、筆者自身によって過去に著されたいくつかの論文の内容を、修整・編纂し、新たに書き下ろされた内容を盛り込んだ体裁のものであることをお断り申し上げます。
 関連論文:『マルセル・デュシャンの方法』 (「ECRITS」創刊号 98年)
        『近代絵画と言語』 (「青い花」第三号 98年)
        『シュルレアリスムとはなにか』 (「二松ちゃんねる」 00年)



e0057603_4563722.jpg

     ↑左よりアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ツァラ、バンジャマン・ペレ
[PR]
by ecrits | 2007-05-05 09:30 | 論考
<< このブログの一時閉鎖について 光の庭園 >>