岩井俊二『四月物語』を再発見する/2003.4.7 『others』初出

 先日、親しい友人たちの呼びかけで花見に参加する機会を得た。まだ肌寒さが残る4月初旬の日曜、それまで連日のように雨が降っていたその中晴れの昼下がりに、われわれは松山市の城東、石手川の土手沿いに集合した。
 市内を東から南に切断するように流れるその川は、源流を奥道後の静かな湧き水に保ち、今日でこそ上流に広大なダムを有しているものの、かつては白鷺が羽を休める優雅な流れを見せていた。住宅街がまばらに点在する中流域に差し掛かるころの千本桜は桜の見所で、毎年この時期になると大勢の花見客が訪れる。
 格別な挨拶もないまま、いつ終わるとも知れぬ宴の席の途中で、私は何気ない心持で舞い散る桜吹雪を見、ふと岩井俊二の『四月物語』を思い出していた。

 『スワロウテイル』(96年)、『リリイ・シュシュのすべて』(01年)などの作品で知られる映画監督岩井俊二が製作した、大学進学のために上京してきた18才の少女の物語。
 主人公の楡野卯月(松たかこ)は北海道の旭川出身。上京し、慣れない新生活の日々をスタートさせる。ある日、彼女は学生同士の自己紹介で「なぜこの大学を受けたのか」と質問され、答えに詰まってしまう。彼女には高校時代に想いを寄せていた先輩がおり、彼女は彼の進学先である武蔵野大学を受験し、合格したのだ。
 やがて彼女は山崎先輩(田辺誠一)がアルバイトをしている書店「武蔵野堂」を尋ね、再開を果たし喜びに胸を躍らせることとなる。

 作品としては、この作者の繰り返すモチーフ「美しき恋愛物語」に終止したストーリーで、そもそも批評に値する作品ではない。作品序盤に執拗なまでに展開される、大量の桜吹雪が舞い散るシーンの反復は、新生活の始まりを予感させ、それなりに華麗ではあるが、やはりイメージの弱々しさを露骨に感じさせるカット割り(特にタクシーの運転手に道を尋ねる引越しのトラックが通り過ぎ、そこに白無垢姿の花嫁が乗り込むシーンなど)によって、いかにも貧相な映像に仕上がってしまっている(その貧相なイメージを意識して演出しているのだから余計にタチが悪いというべきか)。
 私はこの作品を渋谷の映画館のレイトショーではじめて観た。その時は『リリイ・シュシュのすべて』の先行公開の会場であり、『リリイ』を含む3本立ての一本として観たように記憶している。『リリイ』が、あまりにも貧しく、いや、その貧しさこそが今日という現代のリアルであることの証明だったのに対し、この作品は言わば「終わりなき自意識」の貧しさに貫かれている。柴門ふみは、この作品を「ひたむきな少女の正しさ」が描かれているとして絶賛しているが、もはや阿呆としか言いようがあるまい。この作品を賞賛することも批判することも、あまりにも易しいのだから。

 『四月物語』は終わることのないモノローグである。そこには感傷以外が入り込む余地はない。
 作中、先輩が一足先に進学した武蔵野大学という名称から「武蔵野」という記号を取り出し、「それ以来武蔵野は私の特別な場所になった」とつぶやく少女は、国木田独歩の『武蔵野』を愛読書にし、まだ見ぬ武蔵野の風景(それはまさに自意識特有の「どこにもない場所」として機能している)を夢想する。日露戦争後、日本近代文学の起源ともなった『武蔵野』という風景が実は自らの「内面の発見」(柄谷行人)であったこととそれは、おそらく無関係ではありえないだろう。

 しかし、かく言う私自身もそのような不純な動機によって上京のために進学を決めた一人であってみれば、これは他人事ではない。“外部=他者”を理解できないこと、それが若さということなのかもしれない。
 新高校生、新大学生、とにかく「内面という観念の曖昧さ」(小林秀雄)に足元を掬われている間に、噛み締めておきたい映画。


  ※この文章は、作者が運営していた情報配信企画『others』で、2003年4月7日に公開されたものに、作者自身が加筆・訂正を施したものです。
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by ecrits | 2005-09-01 04:24 | 批評
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