カテゴリ:論考( 18 )

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅳ)


  第3章『大ガラス』以後

 ダダイスムに若干のタイムラグを伴って現れた芸術運動、シュルレアリスムの次元概念の受容は、『大ガラス』以前の、神秘的色彩を帯びたものに近い。そもそも多くの批評家によって指摘されている点ではあるが、シュルレアリスムは、その表面上の前衛的な印象とは異なり、基本的にはロマン主義の末裔である。例えば、文学におけるオートマティズム(自動筆記)や、絵画におけるデカマルコニーやフロッタージュにしても、主体的な介入を極力排除するという表現方法の違いであり、結局は劇的な効果を狙ったものに過ぎないのである。つまり、作品の美的判断自体は、旧来の芸術と何ら変わりがないのである。
 シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンは次のように書いている。

 生と死、現実と幻想、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、肯定が矛盾として知覚されなくなるような、ある一つの精神の点が存在することを信じるべきだと、全てが示唆するようである。

 「精神の点」という表現からもわかるように、ブルトンもまた還元主義の性格を持つ一元論を主張している。したがって、これはキュビスムの次元把握と大差はない。ただキュビスムと異なる点として、キュビスムの次元把握が「知覚しえないものの知覚」、つまり三次元的な認識を越えた、外部の空間に向けられていたのに対して、シュルレアリスムにおける異次元が、無意識、つまり自己の隠された内面への思考であることが指摘されよう。シュルレアリストは、主にフロイトの精神分析を援用し、無意識の解放を主張したのである。ただし、実際には彼らはフロイトの理論を誤読していた。たとえば、フロイトはダリとの会談で「古典的な絵画の中に、私は無意識を探している。そしてシュルレアリスムの中に意識を探している」と語ったという。また、ラカンは一時期シュルレアリスムの運動に理解を示していたものの、やはりその後は袂を分かっている。特に、ラカンの有名なテーゼである「無意識は言語のように構造化されている」が、文法などの一連の言語規則を破壊しようとしたシュルレアリスムと相容れないのは当然の帰結でもあった。
 また、シュルレアリスムは夢に特権的な対象としての地位を与えている。しかし、彼らの言う無意識とは、言表行為や夢の内容の解読を経て発見されるものである。しかし、これは端的に誤りである。確かに無意識は性的なものであるのだが、それが現れているのは夢の内容ではなく、夢の作業(置き換え、圧縮)においてなのである。つまりシュルレアリスムは、夢の内容(これを一般に潜在思考と呼ぶ)と、その書き換え作業(無意識)とを履き違えているのである。
 ならば、シュルレアリスムの作品における性的なテーマは、無意識に対するイメージによる産物であり、それはいたって主体的な選択によるものである。よって、シュルレアリスムでの無意識と理性(意識)の二元論は、それが意図的に企図されたものである以上、無意識の理性化として一元化されるだろう。そして、通常は認識不可能であるが故に理性(意識)へのアンチテーゼとして存在しえた無意識を、主体的な認識によって補足するという行為は、「知覚しえないものの知覚」を試みたキュビスムと同様、神秘主義との近接性を自ら証明していることになるのである。   (完)
                                 2006/7/4


 ※本論考『芸術における異次元』は、筆者自身によって過去に著されたいくつかの論文の内容を、修整・編纂し、新たに書き下ろされた内容を盛り込んだ体裁のものであることをお断り申し上げます。
 関連論文:『マルセル・デュシャンの方法』 (「ECRITS」創刊号 98年)
        『近代絵画と言語』 (「青い花」第三号 98年)
        『シュルレアリスムとはなにか』 (「二松ちゃんねる」 00年)



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     ↑左よりアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ツァラ、バンジャマン・ペレ
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by ecrits | 2007-05-05 09:30 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅲ)


 ※諸事情により連載が長期間滞りましたことを先ずは深くお詫び申し上げます。   管理人



 以上、『GB』や『大ガラス』本体との一通りの照合作業によって、私たちの仮説が、ある程度的を射ていることが証明できたように思われる。しかし最後に、いまだ検証が行われていない重要な概念がある。それは、この『GB』の物語を動かす原因であり、また目的でもある「欲望」のことである。『大ガラス』において、欲望の占める位置とは何であろうか。
 よって以下の節において、この欲望の解読を試みることにする。
 以下の節が、本論の主旨からいささか逸れていることを了承されたい。


 『大ガラス』での欲望の性質は、『GB』の物語の内容、もしくはその物語に登場するのが、「花嫁」と独身の男たちであることを顧慮すると、性的なものであることは先ず疑いを入れない。しかしながら、ここで「性欲」を日常的な意味で受け取ってはならない。と、いうのも、独身者機械はともかく「花嫁」の性欲の衝動は独身者達による裸体化と平行して起きているからである。つまり「花嫁」の性欲は、最初は対象性の希薄な、内的な動機によって発生するものであると考えなければならない。では、性欲の想起の原因とは一体何か。

 ラカンは欲望の運動を差異化と位置付けた。 この構造化する運動は、知覚を差異化して知覚シニフィアンとし(一次微分)、さらに知覚シニフィアン相互を差異化して言語シニフィアンを生み出した(二次微分)。さらにこの運動はシーニュを生み出し(三次微分)、シーニュを差異化して意味の次元を現出させることになった(四次微分)。
 -そして、ここが最も重要であるのだが-さらに意味は身体の快感領域によって差異化され、ラカンのいう享楽になる。
 「照明用ガス」や、鏡の反射などの概念と知覚シニフィアンなどとの厳密な因果性についての考察は、さしあたっては必要ない。むしろ、注意を払わなければならないのは、意味が身体の快感領域によって差異化され、それが享楽になることである。フロイトの指摘にあるように、幼児の性欲は、成人のそれ(性器欲)とは異なり、口唇や肛門などの諸器官と結びつくもの(部分性欲)である。また、乳児が自らの糞便(肛門によって排泄されるもの)を乳房(口唇を通して栄養を与えるもの)や母の胎内に投入し、そのことによって自分が世界そのものになってしまう過程を、メラニー・クラインは「投射による同一化」と呼んだ。この投射による同一化が働いている間、子供は自分や対象の各部分を用いて、対象の属性を統御している。子供は、身体のばらばらの各部分とだけ関係を持ち、それをどのように繋ぎ合わせてみても、「人間」にはならないのである。
 この身体の不安定な状態を脱するのに不可欠なのが鏡であり、そこに映し出された自己の統一体である。ラカンが鏡像段階と名付けたこの期間において、子供は自己の統一像を“視覚”によって先取りし、自己の同一性に歓喜する。
 『大ガラス』における「花嫁」は、もとの三次元連続体の身体を、ガラスという二次元の連続体によって切断されていた。つまり『大ガラス』上の「花嫁」は、寸断された身体の一部でしかないのである。さらに厳密には、この寸断された身体は、それを無限に積層したとしても三次元の連続体にはならない。「厚み(高さ)」の概念が存在していないのが二次元空間だからである。
 この無限の切断による部分の身体から、その積層への不可逆性が問題であり、ここにおいて、この部分性欲及び鏡像段階と「花嫁」の性欲の在りどころとの関係が明白となる。
 つまり「花嫁」は、二次元の連続体である支持体の切断により、二次元の物体である独身者機械の性欲を部分的に感知することが可能であったが、しかし、まさにそれが原因となって、自己の統一像を捉えられない不安定な状態にあった(ばらばらの身体であってみれば、それをどのように組み合わせても人間にはならない)。しかし、「照明用ガス」の打ち上げの時に使用される「眼科医の証人」の鏡によって、「花嫁」は視覚的な自身の統一体を見出すにいたるのである。「花嫁」の快楽とは、したがって自己同一性の獲得による歓喜の別称であると考えられるのである。
 しかし、この鏡像段階が主体に与える悦楽と満足感は、決して長続きはしない。なぜならば、それは鏡の中の自己と、それを見ている主体とを切り離すことを要求するからである。主体は、突き放された形でしか自らを同定し得ないという疎外感を必然的に受ける(『ただ空しく、欲望に火照った花嫁の裸体だけが、処女のまま残る…』)のである。
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by ecrits | 2006-05-15 04:13 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅱ)

 ここまでの文章によって、一連の『大ガラス』の解読は一応の区切りがついた。よって、ここから先は、今までの主張の整合性の証明を、その根拠を、『大ガラス』の図像や『グリーンボックス(GB)』に求めることによって確認するものである。まず、『照明用ガス』の運動に沿って、解釈を施すことにする。

 “「九つの雄の鋳型」の(中略)ガスは、(中略)頭頂部につながっている毛細管を通り抜けている間に、硬い針のような固体に変わる”   (GB:以下“”内は同様)
          ↓
 注目すべきは、ガスが固体に変質することである。一種、希薄な印象を与えるガスから、極めて物質的な固体へと変化するのである。これは、独身者機械が自らを三次元連続体と偽る行為と解釈できる。

 “固体化したガスは(中略)管の出口で解放され、空気よりも軽い切片の霧のような状態に変わり、上昇しようとする(後略)”
          ↓
 しかし、固体への擬態-言い換えれば、三次元の物体への変化-は失敗に終わる。私たちの考察によれば、この原因は遠近法にあると思われる。そのため、次に独身者機械が目論むのは、もともとの姿である三次元の連続体の「花嫁」とではなく、二次元の連続体として切断された、部分としての「花嫁」との合体である。したがって、ガスは、本来の二次元物体の姿に戻る(「空気よりも軽い切片」)のである。

 “(前略)漏斗に捉えられてしまう。(中略)七つの漏斗を通り抜けている間に、ガスは方向感覚を喪失し、それとともに状態を変える”
          ↓
 先に示した通り、七つある漏斗は、右のものほど茶色に変色している。そして不透明になったガラスが、独身者機械を二次元に固定する役割りを果たすことにより、ガスは二次元の物体への変化を完了する。それにともなって三次元の「高さ」の概念が喪失するわけである(「方向感覚を喪失し」)。

 “(前略)ガスは、なおも上昇しようとし、今度は眼科医の表を通り抜ける間に、眩暈を起こす。そして鏡の反射によって(中略)花嫁の領域に達する”
          ↓
 『GB』においては「花嫁」への接近を果たすが、「照明用ガス」を「花嫁」の領域まで打ち上げる機構であるはずの「ボクシングの試合」が、『大ガラス』では製作されないままで終わる。私たちの考察では、この未完成の結果は、デュシャンの意図的なものであると思われる。と、いうのも、「花嫁」と独身者機械は、帰属している次元が決定的に異なっており、そのため、視覚的なメカニズムによる発射(「眼科医」「鏡の反射によって」)の失敗は、必然的であるからである-二次元の存在者が、三次元の連続体の【形状】を確定できないことの視覚的含意に留意されたい-。ガスの起こす眩暈は、その鏡によって同一性を獲得するであろう「花嫁」の全体像-独身者機械は決して見ることのできない-を想像したときの、独身者機械の動揺の結果であると解釈できる(この意味は後述される)。

 “(前略)九つの射点と呼ばれ、下手な射撃のように、九つの穴がバラバラに散っている”
          ↓
 「九つの射点」は「花嫁」の領域に穿たれている。これは、ガラスの面に対して垂直に運動するものの存在が示唆されている。したがって、この射点はガラスの前後に存在している「花嫁」の、三次元的展開を示す根拠となっている。

 “一方、独身者達による裸体化と平行して、花嫁の領域では、「欲望する花嫁が自発的に想像した裸体化」(中略)が起こる。(中略)こうして、花嫁と独身者達の両者の欲望によって、花嫁は裸にされ、開花を遂げるわけだが、それにもかかわらず両者の真の出会いと結合は果たされない。”
          ↓
 『大ガラス』においてのキーワードの一つである「裸体」が登場している。裸体とは、二次元の連続体である「照明用ガス」が辛うじて「花嫁」の領域に達した、そのコントラストとして明確になった「花嫁」の、二次元の存在者には認識不可能な三次元の展開部分のことを指している。よって、「花嫁」を裸にすることで、逆説的に「両者の真の出会いと結合は果たされない」のである。その結果として、独身者機械の欲望は出口を失い、「チョコレート摩砕器」を回転させるにとどまる(『GB』には「緩慢な性」「堂々巡り」「オナニズム」等々の記述がある)。
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by ecrits | 2006-03-22 05:17 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅰ)

 その根拠として示されるものに、まず前述した図像の表現方法の差異が挙げられよう。三次元の連続体の切片として定義された「花嫁」とは異なり、独身者機械の領域における諸図像は、遠近法で-つまり擬似的な二次元の支持体上での三次元的な表現で-描かれ、また、その形状も「花嫁」と比較すると至って現実的であり整合的である。このことが意味するものは一体何か。
 遠近法はルネサンス期に理論化されたものであり、一般的な定義としては、三次元的奥行きを二次元の平面画に定着させるための方法、となっている。ここで重要なのは、描かれている“もの”そのものは、二次元の連続体であることである。この、「遠近法で書かれた図像が二次元の物体である」ことは、私たちの主張の観点との関係において、特別な意味を付与されることになる。それは「花嫁」との差異において。つまり、独身者機械の遠近法的な表現が示しているのは、「花嫁」と独身者機械が両者とも同一の二次元的な支持体上に描かれているにもかかわらず、その間に決定的な差異が存在し、なおかつその原因が、独身者機械の遠近法的表現それ自身にあることである。
 遠近法による表現と「花嫁」の切断的な表現の違いは、それが二次元の空間で完結しているか否かによる。先に述べた通り、独身者機械の表現は現実的である。なぜならば、それは三次元の物体の立体感や位置関係などを、忠実に支持体上に固着させているからである。しかし、事実として四次元の物体の展開を三次元の空間において確定させることは不可能である。しかしながら、遠近法は二次元の空間の範囲で、三次元的表現を固定する。つまり独身者機械は、それ自身で、そして自身の次元で既に完結しているものとなる。したがって、三次元の物体の二次元的表現であるはずの遠近法は、『大ガラス』においては、独身者機械が三次元的拡張の可能性の絶たれた決定的に二次元の連続体であることを逆説的に示しているのである。
 独身者機械の領域の構造の一つに「篩」(ふるい)がある。注目したいのは、その七つある「篩」が、図像向かって右方向のもの(つまり、「照明用ガス」の進行方向)ほど茶褐色に濁っていることである。我々の考証では、これは支持体上のガラスが曇る-透視が、つまりは、三次元への拡張が不可能になる-ことを、ひいては我々の主張の正当性を示していると思われる。

 ここにおいて、先に示した重要な問題定義であると思われる「花嫁」と独身者の思いが通じない理由、そしてそれを妨害するものの正体が説明可能になる。つまり、「花嫁」と独身者機械とは、所属している次元を異にしているのである。「花嫁」が三次元の連続体であるのに対し、独身者機械は(遠近法で偽装こそしているものの)二次元の連続体である。独身者機械の認識できる花嫁の姿は、「花嫁」本来の形状の無限に切断された一片に過ぎない。よって、独身者機械の欲望は「花嫁」に僅かな期待感を抱かせるのみで終わってしまうのである。
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by ecrits | 2006-02-06 04:26 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹ)

 このような、三次元の連続体の不可視性から導かれる無限の可能性に対しての二次元の世界の存在者の知覚の限界を示すことは、同時に三次元の空間に属している私たちが、原理上四次元(もしくはより高次元)の連続体を知覚することが不可能であることを明確に表すだろう。この文脈において、はじめて冒頭のデュシャンの発言を文字通りに受け取ることが可能になる。その意味で『大ガラス』は、不可視な異次元の連続体を単なる印象によって処理しようとしたキュビスムへのアンチテーゼとしても位置付けられるのである(実際、デュシャンが1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに『階段を降りる裸体』を出展したところ、アルベール・グレーズらキュビストによる抗議を受け、作品を撤回したことがある。キュビスト達の抗議の理由は明らかにされていないが、私たちの考察によれば、おそらくそれまでのキュビスムが前章で採り上げたように多角的な視点の統合処理-つまり、時間の主観による集約的把握-だったのに対し、デュシャンの作品は時間の単一な視点による処理であったことが原因であろう。また、デュシャンは『大ガラス』以後、芸術作品の制作を遺作を除いて放棄する)。

 では、『大ガラス』の下半分を占める独身者機械についてはどのような解釈が可能だろうか。
 独身者機械の領域の図像も「花嫁」と同じくガラス上に表現されている。しかし、にもかかわらず我々の考察によれば、独身者機械と「花嫁」との間には決定的な差異がある。

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   ↑マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》
     1912年 油彩、キャンバス 146×89
     (c)Succession Marcel Duchamp/ADAGP,
     Paris&JVACS,Tokyo,2004
     (c)Philadelphia Museum of Art:
     The Louise&Walter Arensbergcollection
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by ecrits | 2006-02-02 05:01 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅸ)

 結論を先に示しておこう。我々の解釈によれば、その発言は次のように変形することが可能である-「三次元の物体の二次元への投射」と。
 この同型的な読み替えの正当性の根拠を示しておこう。まず最初に想起してもらいたいのは、『大ガラス』を構成している二つの部分-「花嫁」の領域と独身者機械の領域-における表現方法が異なっている点である。上部の「花嫁の領域」の中での表現方法は、前述したように、各図像を整合的な理解が不可能であるかのように形作っていた。しかし、我々の解読の射程においてこの図像の不整合性は妥当な根拠を持ちえている。n+1次元の連続体はn次元において、n次元の切片としてしかn次元の存在者には認識され得ないのであった。この点を考慮に入れるならば、ガラス上に写された「花嫁」は、ガラスという透明な、そのため、限りなく「厚み」を鑑賞者に認識させない支持体-つまり二次元の連続体としての支持体-によって切断された、切片の中の一つであると解釈できるのである。したがって、「花嫁」は三次元の連続体であり、ならば「花嫁」の領域の諸図像が、不可解な外観をなしているのは当然なのである。二次元空間で無限に-というのは、二次元は定義上「厚み」が存在しない空間であり、したがって、三次元の連続体の細分化は、無限に継続されなければならないから-切断された結果としての「花嫁」の部分(切断面)のみが『大ガラス』において表現されるにとどまっているのだから。
 この解釈のパースペクティヴにより、『大ガラス』の支持体がガラスでなければならない理由を説明することが可能になる。つまり、二次元に帰属する存在者が、三次元の連続体を二次元の空間内でのみ認識可能であるならば、三次元の連続体は二次元の存在者に対して、その切片の連続(もしくは変形)の無限の可能性を示すことになるだろう。そのためには、(原理的には)図像は、支持体上に固定されていてはならない。ただ、現実的な問題として、それは『大ガラス』が平面芸術であることからして不可能である。しかし、支持体にガラスを採用することにより、『大ガラス』の前方のみならず、その後方に対しても「花嫁」の本来の姿、つまり三次元的連続体としての姿を、不可視性という逆説から念頭に置くことが可能になったのである(現在、『大ガラス』はフィラデルフィア美術館に展示されており、ガラス越しに美術館の庭の噴水を望むような配置となっている。よって、「花嫁」と、その噴水とを三次元の空間において一体化して眺めることも可能である。しかし、その事は『大ガラス』の配置を僅かに変えるだけでも、ガラス越しの風景は変化してしまうことを意味している。そのため、鑑賞者は永久に「花嫁」の三次元的な展開の確定を行うことはできない。つまり、「花嫁」が本来三次元の連続体なのに対し、それが二次元の空間によって切断された形態においてしか知覚しえないため、鑑賞者が「花嫁」の本来の形状を無限に想像することが可能であるということ-だが一方で、それが「花嫁」の完全な姿が定義上不可視であることを示していること、これらの背反的な状態を、支持体としてのガラスは表現しているのである-)。布を張ったカンバスなどの他の支持体では、不透明なマチエール上に図像が固定されるため、このような三次元的展開は表現不可能なのである。
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by ecrits | 2006-01-28 05:29 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅷ)

 デュシャンの発言の中にあらわれた「投影」という言葉と照らし合わせてみれば、この次元空間の定義と『大ガラス』との関係が、従来とは異なる解読を試みるにあたって、重要なヒントを与えていることが分かる。ただし、注意しなければならないのは、前述したデュシャンの発言は、あくまで比喩として捉えなければならないということである。もし、その言葉通りに『大ガラス』を「四次元の物体の三次元への投影」として解釈するならば、『大ガラス』自体が三次元の物体でなければならなくなる。ところが、まさにその理由によって『大ガラス』の解読作業が、ある種の難問に直面してしまう。では、その難問とは何か。
 問題を少しずつ詳らかにしていきながら解説しよう。
 まず、確認しておきたいのは、現実において『大ガラス』が三次元空間に属する物体であること、それは確かに事実であるということだ。ガラス自体にも程度の差こそあれ「幅」が存在しているからである。言うまでもないが、「幅」が無ければそれは明らかに三次元の連続体ではない。しかし、その条件は何もガラスだけに限られたものではない。絵画などのいわゆる平面芸術として認知されている作品にしてみても、厳密な意味で平面(つまり二次元の連続体)であるものは皆無であり、たとえ支持体がカンバスであろうが、紙であろうが、また油絵具にしても、理念的には三次元の物体に他ならない。したがって、デュシャンの発言をそのまま受け取ってしまった場合、『大ガラス』が、ほかでもないガラスを支持体としている理由について説明する事が不可能になってしまうのである。
 とはいえ、デュシャンの発言の有効性は未だ薄れていないと思われる-前述したように、それを比喩として捉えるならば。-では、我々はその発言をどう読み替えるべきであろうか。ここで重要なのが、支持体としてのガラスの性質である。ガラスとカンバスの性質の異なる点としてまず挙げられるのは、ガラスが透明であり、カンバスは不透明であることだろう。では、透明な支持体が与える、カンバスでは表現し得ない効果とは何か。そしてその効果の解釈を足掛かりに、『大ガラス』の解読を試みるにあたって、先のデュシャンの発言はどのように読み替えうるのか。
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by ecrits | 2006-01-16 04:30 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅶ)

 『大ガラス』の本格的な解読作業を行う前に、『グリーンボックス(GB)』に収められたデュシャンのメモに目を通しておこう。この中でデュシャンは、「花嫁」と独身者たちの物語を書き記している。あらすじをまとめると、まず独身者たちは「花嫁」を誘惑しようと試みる。そして彼らの頭部から噴出した「照明用ガス」は漏斗(「篩」)を通過し、その後「眼科医」の鏡の反射によって、上部の「花嫁」の領域へと上昇し、彼女を裸体にしようともくろむ。一方「花嫁」は独身者たちによる裸体化と平行して、欲望の想像によっての自発的な裸体化を進める。そして「花嫁」は性腺の分泌液によって、そして独身者との性的快楽への欲望によって完全な裸体化を目指す。しかし、両者の出会いと交合は果たされないままで終わる。
 この奇妙な物語において明確な出来事の進行は、独身者と「花嫁」の欲望による出会いが果たされなかったことである。デュシャンはその理由については触れていない。それでは、何故それは実現し得なかったのか。『グリーンボックス(GB)』のメモは、奇妙ではあるものの、大まかに捉えれば、恋愛についての物語である。したがって、この問いは次のように変形できる-何故両者の思いは通じなかったのか。そして、それを妨害したものは何か、と。
 ここで思い出してもらいたいのが、この章の冒頭で触れたデュシャンの言葉である。それは「四次元の物体の三次元への投影」であるのだが、この言葉の意味する事を推察するには、次元に対する厳密な-つまり単なるイメージによって捉えるのではない-理解が、ある程度は必要と思われる。
 では、厳密な(ここではあえて「学問的な」としよう)意味における次元とは何か。それを明らかにするために、フランスの数学者ポアンカレによる定義を引用してみよう。

 もし、物理的連続体Cを、すべてが互いに他の要素と識別し得るような有限個の要素からなる切断によって分割できるならば、われわれはCを1次元の連続体と呼ぼう。もしCが、それ自身が連続体であるような切断でなければ分割されないのであれば、Cは多くの次元を有するという。もし、切断が1次元の連続体ならば充分だというときには、Cは2次元を有するという。2次元の切断で充分ならばCは3次元を有するという。以下、同様である。


 切断が3次元の連続体ならば、その物理的連続体は4次元を有する。そしてこれは5,6次元にも、そして、より高次元に対しても拡張可能である。また、裏を返せば、これはn次元の存在者はn+1次元の連続体を、あくまでn次元の空間内でしか認識し得ない、ということである。したがってn+1次元の連続体がn次元において認識可能である場合、その連続体はn次元内での切片として-つまりn次元の連続体として-のみ、n次元の存在者に認識される。例えば三次元の連続体が二次元の空間を通過する際、その連続体は二次元の存在者にとって、あくまで面の連続の-したがって連続体の形によっては、面の形状の連続的な変化の-投影としてのみ捉えられる。前章で、四次元が不可視であると述べたのは、この意味においてである。

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   ↑所謂、ポアンカレ断面図の一例。上図(a)は、準周期解についてのポアンカレ断面図。中緯度にカオス混合領域が存在し、 その両側に不変トーラスが閉じたループ状になっている。
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by ecrits | 2006-01-07 07:12 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅵ)


   第2章 『大ガラス』

 『大ガラス』(正式名称は、「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」)は、1915年より制作が始まり、8年後の23年に未完のまま制作がとどめられたフランス(当時)の芸術家マルセル・デュシャンの作品である。最も大きな特徴は、図像がガラス上に描かれていることであり、そのため1926年11月に開催された近代芸術国際展の終了後の搬送中にひびが入ってしまい、以後はそのままの状態で展示されている。その理解不能な図像から、最も解釈の難解な芸術作品の一つとして今日でも広く認知されている作品でもある。
 デュシャン自身の語るところによれば、この作品におけるキーワードの一つは「四次元の物体の三次元への投影」である。これは一体どういうことであろうか。
 第2章では、極めて示唆的であり、重要であると思われるこの発言を軸に『大ガラス』の解読を試みるのだが、それにあたって、まずこの作品の大まかな輪郭を説明する事から始めよう。
 『大ガラス』は大きく分けて二つの部分によって構成されている。一つは上半分の花嫁の領域であり、残る一つは下半分の独身者機械の領域である。花嫁の領域は「花嫁/雌の溢死体」と「通気ピストン」、そして「九つの射点」からなり、独身者機械の構造は、作品に向かって左から「九つの雄の鋳型」「隣金属性の水車のある滑構」「ふるい」「チョコレート摩砕器」そして「眼科医の証人」となっている。そしてそれらは全てガラス上に描かれている。また、『大ガラス』は未完成品であり、初期の計画では描かれる予定だった「ボクシングの試合」や「重力の軽業師」が制作されないままで終わっている。
 ここで注意しなければならないのは、第一に、この二つの部分の基本的な図像の表現方法の差異についてである。つまり、下部の独身者機械は、ある固定された一つの視点からの状態、つまり遠近法の投影として描かれているのに対し、花嫁の領域は、一見すると何が描かれているのか分からない、不可解(=不可視)な表現が用いられていることである。そして第二に、これらが全てタイトル通りにガラス上に固定されていることである。
 しかし両者において、その形状の不可解性そのものの原因、そしてガラスの意味するものについての考察は今まで行われてこなかったように思われる。この『大ガラス』の数多の先行テクストにおいては、この「花嫁」の形状が「何を」示しているかについては大いに考察がなされてきた。例えば「花嫁」に内燃機関の外観を見出しているものも多い。しかし、私の考えでは実はこの種の解説は何の回答も提出してはいない。と、いうのも、これらの解説に従うならば、では何故「花嫁」のみが「独身者機械」の遠近法的なものとは異なった方法で表現されているかについて、そして、それらがなぜ他でもないガラス上に描かれているかについて、全く答えられないからである。つまり、『大ガラス』を解読するには、What(何が描かれているか)ではなく、How(どのように描かれているか)に対する解答が不可欠な条件であるはずである。しかし現実においては、通称にさえあらわれているにもかかわらず、このガラスというマチエールそのものが作品に付与する意味に関しての指摘が意外に少ないのである。せいぜい、独身者機械の表現に関して、その焦点がガラスを通過した作品の背後で結ばれることなどが指摘されているにとどまるのである。しかし、私たちの考えによれば、この問題はより深い、作品のコンセプトそのものに通ずるものである。したがって、私たちの考察はこれら二つの特徴を、ある一つの結果へと結びつけるものになるだろう。


   ※第2章の執筆、および改稿に関し、“ぴゅーぴる”君の丁寧なアドバイスと支援を頂いた。ここに深く感謝の意を表ずる。ありがとう!   えくり
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by ecrits | 2006-01-02 04:24 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅴ)

 この難問を回避するには、自己の所属する空間の規定の根拠を自らに還元しないこと-言い換えれば、自己指示形式の構造そのものの構造(正当性)-を主体に帰属させないことが必要である。実は宗教は、この自己指示形式の構造の正当性を、その主体から引き離すことが可能な極めて巧みなシステムを自覚的にしろ、無自覚的にしろ採用している。それは、神の言葉を神自身でなくその代弁者に語らせるという教義の伝達システムのことである。例えばキリスト教では、神の言葉は、神ではなく神の子であるキリストによって伝達される。実際には、この構造においてもキリスト自身の中では、前述した自己言及のパラドクスは依然として影響を及ぼしている。しかし一般の信者達は、その難問をキリストに集約させることで、偽装ではあるにせよ、それから遠ざかることができるようになるのだ。つまり、神と人との原理的には果たされるはずがない意思の疎通を、間にキリストというグレーゾーンを挟むことで可能にするわけである(グレーゾーンとしての-つまり両義性を持ったキリストに関しては-芥川龍之介の『西方の人』において言及されている。さらに、拙著論文『芥川龍之介のキリスト~神学の構造に向かって~』 「ECRITS」臨時増刊号第9号(04年11月)に、さらなる論考が展開されている。また、自己指示形式の矛盾、その解決手段としての社会システムの問題に関しては、大澤真幸の『行為の代数学』に詳しい。その中で、大澤は折口信夫の「まれびと論」における「まれびと」の概念を、内部と外部という両義性をもつものとして、社会システムの解析に援用している。私たちの考えによれば、これはキリスト教でのキリストの果たす役割と酷似している)。
 しかし一方、キュビスムは、グレーゾーンの存在はおろか、精神と身体(宗教の世界に置き換えれば、神と人間)とが融合する空間として四次元(宗教では、神の世界)を想定している。したがって、この章の冒頭で述べたように、四次元を無限のものとしながら、なおかつそれを感覚によって認識しようとする矛盾が、不可避的にあらわれてきてしまうのである。
 つまり、キュビスムは次元の考察を感覚に頼ったために、不可視なものの印象による処理にとどまったわけである。そして、この「不可視のイメージによる処理」は、神秘主義において盛んであった(正確に言えば、現在においても、この種の思考停止としての神秘主義は少なからず存在している。そして実に、これこそが神秘主義の孕む最大の魅力であり、同時に最大の欠陥なのだ)。冒頭に挙げた文章は、ここにおいて解釈可能になる。つまりキュビスムにおける異次元は、古来からある“神秘”の別称に過ぎない。
 では、次章で扱う『大ガラス』作品における「次元」とは何か。初期の彼はキュビスム的な作品を制作していた(『階段を降りる裸体』など)。しかし、私たちの考察によれば、キュビスムと『大ガラス』の間には、決定的な差異があるように思われる。
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     ↑芥川龍之介 田端の自宅にて(大正14年8月頃)
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by ecrits | 2005-12-23 03:38 | 論考