カテゴリ:質疑応答( 4 )

Samuel02226君へ

 Samuel02226くん、お返事が大変遅くなりました。申し訳ありません。
 ご質問の件に関してお答えさせて頂きたいと思います。

 先日の憲法9条をまもる愛媛県民の会ではお世話になりました。また、大変お疲れ様でございました。私とは初対面だったにもかかわらず、君が積極的に発言してくれたおかげで、周囲の学生達も大変触発された様子で、様々な意見の飛び交う、良い勉強会になったのではないかと思います。重ねて御礼を申し上げます。

 さて、ご質問の内容に関してですが、護憲の姿勢を「建前の理念でやればいい」ということに反対する、というものでしたね。

 まず、最初に申し上げておきたいのは、私は「建前の理念が重要だ」とは言いましたが、とにかくその一点張りでゴリ押しすればいいとは思っていません。それでは、旧左翼の人たちがやっていたことと何も変わりがありません。それは極めて素朴な意味で全く駄目だと思います。
 私はGHQが戦争放棄を謳った九条を「押し付け」たのは失敗だったとかなんだとか、そういう議論には一切興味がありません。また、それはほとんど無意味に近いものだと思います。重要なのは、この条文が、武力保持をネグレクトするために非常に有効である、というところだと思います。
 抽象論ばかりになるようですが、何人もいかなる理由であれ他者を傷つけてはならない、これが理想です。「非戦」はそのために統制的理念(カント)として働くでしょう。本当は無抵抗主義が最も良い方策だと思います。殴られたこと自体をネグレクトするのですから、殴った方にとってこれ以上効果のある反撃はないでしょう。しかし、現実的な問題として、それでは上手くいかない。
 私は、無抵抗主義のポーズをとりながら、九条を国連声明に盛り込むことが現状で為し得る最良の方法だと思っています。だから、建前の理念が大事だ、と言ったのです。もちろん、現在の国連機構に満足してはいません。多々問題があることは知っています。それに、例えば北朝鮮のような国が国連約定を無視してミサイル実験をしないとも限りません。
 しかしながら、そこに建前の力が働くのだと思います。実際、北朝鮮の例を取れば、あれは極めて幼稚な脅しに過ぎないわけで、自国の醜態をさらすようなものです。経済制裁を含めた様々な圧力であの程度の、謂わばチンピラの脅しすかしに似た「暴力」はなだめてしまえるでしょう。
 繰り返しますが、私は九条は建前であっていいと考えています。建前を軽んずる人は、建前がいかに足枷となって身動きが取れなくなるかを理解していないのです。建前は理想的であるからこそ意味があるのです。そこで矮小なホンネに開き直って、ミサイル発射基地への直撃空爆なら自衛の範囲内だとか言ってもしかたがない。相手の醜態に醜態で返事するようなものです。

 私は理論は現実に試されなければ意味がないと思います。
 我々が出来ることは口先だけではありません。
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by ecrits | 2006-07-20 02:23 | 質疑応答

批評にとって作者とは何を意味するか ~differend6氏への応答~

 以前、このexiteブログでお世話になっていたdifferend6氏のブログ(politique de la Représentation )にて興味深いご指摘を頂いた。それは「作者」をめぐる諸問題である。したがって、この論点は爾来飽きるほど繰り返されてきた「作品」と「作者」の関わり(つまりはテクスト論的読み)の域を出ないかもしれない。しかしながら、ここでは「批評」のスタイルを巡って一つの到達点があるように思われる。で、あるから、私は少しばかり自分の姿勢をはっきりとさせておく。おそらくそのことは私の指標を表明することでもあろうから。
 断っておくが、differend6氏の映画批評はそれ自体立派に完成されたものであり、わたしが口を挟むべきようなものではない。私は年少の氏に敬意を表している。

 氏は同ブログにおいて、槇原敬之の『雷が鳴る前に』を歌詞から表層分析し、そこから「距離」「願掛け」「自然」というキイワードを取り出し、「雷」との関連性を分析している。
 私がこの曲を知ったのはおそらくは中学生の時分だったと記憶するが、雷が鳴ることと電話で話すことの間にある「ズレ」-つまりは、ほぼオンタイムで話者間をつなぐ電話によるコミュニケーションと、若干の時差を伴う雷(それは二人の微妙な距離を暗示している)の存在がこの状況では重複している-をなんとなく直感していた。それゆえに、バブル末期を象徴するようなこの種の彼の作品群の“凝りよう”に当時は耽溺していた。
 余談になるが、「雷の中で公衆電話から恋人に電話する」という状況はラッセルのパラドクスに酷似している。

 私は氏に言う。
 この「ズレ」は彼が実際にはゲイであったこととパラレルだ、と。
 聴き手が異性間の恋愛を想定しているにもかかわらず、現実的に彼が夢想していたのは同性間の恋愛であった。無論、作品の内容が事実であったかどうかは問題ではない。槇原敬之の面白さは、常にこの種の「ズレ」を孕んでいることであり、聴き手が(まさに表層の)作者を捉えようとすると、その瞬間に作者は別の地点に移動しているという捉えどころのなさなのだ。
 このことは恋愛に限らない。一々例証をあげることはしないが、彼が逮捕後に帰るべき場所(「Home」)と言っていたのは現実的に大阪ではなく、どこにもない場所であり、恒久平和の夢想に他ならない。
 この点は彼の作品の面白みであるが、と同時に、彼の作品を何か「後味の悪いもの」にしてしまっている。彼が妄想や禅にしか依拠できないのは致命的である。だからこそ、彼の作品はその魅力を語ると同時に彼のどうしようもなさを語らざるを得ない。その意味で、私は「極めて単純な意味で彼は下らない」と言った。

 氏はこれに反論している。
 氏は、作品に触れる時「そこに作者の影を見てしまうのは実際テクスト論でもなんでもなく、ただあのルネサンス以降執拗に繰り返されてきた啓蒙の図式に他ならないと、肌で感じてい」る。そして、「「槇原敬之の性的指向」といったような、それこそ伝記的事実と作品を練り合わせる行為は、槇原自身に関心があるならば勿論必要なプロセスに違いないのでしょうが(それは作品に対してはindex的な役割を果たすように思えます)、しかし作品それ自体と対峙するにあたっては何の意味もない」という。
 氏は個人的に「かなり前から、作品に作者の影、若しくは作者自身を見る批評方法にひどく違和感を覚えていた。というよりは、退屈に感じていた」と言っているのだから、この主旨は充分に理解できるものだ。皮膚感覚、と言うものだろうか。

 率直に言って、私は「啓蒙の図式」も「テクスト論」も「作者論」も全て同様に退屈だ。
 繰り返すが、私は槇原敬之を単純に下らないと思っている。本来ならば、批評で口を出すようなものではない。つまり、論外。
 私が面白みを見出したものは『雷が鳴る前に』のテクストではない。そこにあるズレなのだ。作者がある、ということ。そして、作者がズレを抱えながら転進したということ。そのことは作者論とは何の関係もない。

 私は、厳密には批評に方法などないと思っている。
 好きなように読めばいい。
 問題なのは、そこに批評としての可能性をいかに見出せるかということだ。
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by ecrits | 2006-05-22 04:41 | 質疑応答

神経症 ~清水覚君に~

 病気は、突然、向こうからやってくる。
 10代の私を一番よく知っている、或る女性と連絡をとり、神経が甚だ乱れる。
 自分の体でも、自分がコントロールできるのは、本当に一割にも満たないと感じる。こうしている今も、私の知らない所で小脳や脳幹が働いている。
 清水覚君、君が考えているのよりも全く下らないことで、僕は一喜一憂し、影響されるんだ。そのような現象を、僕は下らないとは思いながらも、否定したくはないし、また、すべきでもないと思っている。そのような意味では、果たして一体誰が論理的に「徹底」だったろうか。君は論理的であることの位相を根本的に取り違えている。
 それは全く批判ではない。


   「砂の上の、書きかけの楕円
          誰も皆、大きくなって、もう戻らない。」
   野中公美 様
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by ecrits | 2005-12-26 01:44 | 質疑応答

書くことの困難さ ~神尾亜樹氏への応答~

 芝居の打ち上げがあって、したたかに酔っ払った。
 みんなで風呂に入りに行こう、という話になって、私はおぼつかない足取りのままtaxiに乗り込み、松山市郊外にある温泉に彼等を連れて行った。そんな状態で運転手に迷惑をかけようという馬鹿も馬鹿だが、泥酔で風呂に入りに行く集団も余程の馬鹿だろう。ただ、気持ちは分かる。ここはおあいこだ。
 脱衣所で男同士、遠慮なく服を脱ぐ。私はタオルで下半身を隠す。そしてそのまま、湯船に入る。さすがに湯船の中までタオルは持ち込まないが。
 ひとりの学生が、不思議そうな顔で私を見る。こんな深夜に他に客はいないのに、どうして体を隠す必要があるのか…という疑問らしい。私は彼の疑問を感覚的に理解できるが、自分が不思議な事をやっているとは思わない。なぜなら、私はできることなら他の皆にも下半身を隠して欲しいと思っているからだ。もっと言えば、私はバスタオルで全身を隠して入浴したいとさえ思っている。やはり、皆にもそうして欲しい。だが、それはいささか非常識に過ぎるので、そんなことを強制したりはしない。
 なぜだろう。自分の身体に自信がないからか。いや、違う。それとはもっと異なるレヴェルの問題なのだ。一言で言えば、男性性の不愉快とでも言うべきか。「性」自体が不愉快だからか。
 話が及んで、日常生活のあれこれ。私は、トイレで水を流して小用を足す。さらに、洋式のトイレであれば、必ず腰を落として用を足す。誰に教わったわけでもない。そういう習慣が幼い頃から身についてしまっているのだ。思い起こせば、私がまだ幼稚園生であった時分、父方の祖父祖母の実家に母の仕事が終わるまで預けられていて、その家の洋式トイレに(厳密には水のタンクの部分に)「男性の場合・女性の場合」というシールが貼ってあった。男性はこのように用を足しなさい、女性はこのように…体が単純な円と長方形で示され、図式化されている。私はそれが非常に不愉快だった。なぜ、決まっているのか。なぜ、従わなければならないのか。トイレの方法を。「そう決まっている事」が不愉快だった。今、考えれば埴谷雄高の形而上学みたいで流石に良い気はしない。

 思想工房ECRITSの神尾亜樹氏が当ブログで公開した「私の「夢十夜」 ~第二夜~」に否定的な批評を与えて下さった。本来ならば、個人の質問や批判には個別に応答すべきである。しかしながら、この批判には私の問題系にある種の示唆を与えている。だから、今回は例外的にこの批判をとりあげ、応答に加えて、少しばかりこの論旨を展開していこうと考えている。

 神尾氏は、私の「夢十夜」(以下略)の「雨濃野」という場所を、一ヶ月に一度訪れて心の平穏を取り戻す場所-つまり女性の生理の遡行的な同化であると指摘している。男性が母系的な血種に同化(二重化)することで、家父長制という、性の抑圧を隠蔽する装置になる。古来から日本に連綿と続くこのような復層性(例えば、土佐日記の場合など)を黒川もまた踏襲している。端的に要約すれば、彼女の批判はこのようなものである。この点については、まず問題ないと思われる。ほぼ全面的に、神尾氏の指摘は正しい。氏は他にも、年少者に向けた私の暴力的な性の問題を提起しているが、これについてはやや結論を急ぎ過ぎたという感があり、もう少し綿密な研究を待つ事にしたい。

 しかし、問題はそのように単純であろうか。
 女性性は今日も日常的に抑圧されている。例えば、女性は体毛を処理しなければならない。女性は生理の到来を隠さなければならない。女性はトイレの音を隠さなければならない。例えば、私がこのような抑圧への意図的な歩み寄り(譲歩‐同化)を見せたとはいえ、「書く」こととは、実は“自己増殖しつつ体を傷つける事”(妊娠)によってのみ可能ではないのか。さらに、このような抑圧には、逆説的に女性が女性性を保守しているという側面がある。私の「性」の否定はこのような「困難さ」という問題と表裏一体であることを見過ごしてはならない。
 性は常に容易ではないのだ。
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by ecrits | 2005-10-02 02:26 | 質疑応答