カテゴリ:思想( 5 )

Annameable

     黒川梓   もう名乗られることのない名前…Glass


 全ては技巧の問題だという。だが、果たして本当にそうだろうか。
 たとえば、ある女性が、暮れの迫った夕闇の中で、公衆電話から電話を掛けているとする。電話の相手は男性らしい。二人は恋愛関係にあって、そのときは何か取り留めのない話しをしている。
 ふと、彼女は肌に夜の風を感じて思わず身震いする。「冷たい…」と、言う。
 この言葉はほとんど身体上の反射である。しかしながら、「冷たい」と思わず口にしたとき、彼女は「冷たい」のが身体の条件なのか、彼の応対なのか、二人の関係の間の距離のことなのかを咄嗟に自身で判断ができない。
 受話器の向こう側にいる男性は「どうしたの? 大丈夫?」という。
 彼は畢竟彼女の身体が大丈夫かどうかを心配しているのだ。
 彼女は「大丈夫かどうか?」という質問に対して、ついには何も答えられなくなってしまう。大丈夫なのは身体であるのか、自分の心であるのか、また自分はそれに対して何と答えればよいのか。大丈夫なのか、あるいは大丈夫ではないのか。自分の感情はどうなのか。
 彼女は自分が嘘を言っているかのように錯覚し、軽い眩暈を覚える…

 我々が何らかの過失をはたらくとき、厳密な意味でそれを完全に贖罪することはできない。なぜなら、過失自体がすでに過去のものであるからだ。我々はそのことのために、常に事後的である他はない。神への懺悔はこのことを補填する。
我々が「責任」と呼び、「主体」と呼ぶものも、結局はそのように過去から塗り込められた情報に拠っている。我々はこのことを一体どのように理解すべきだろうか。

ウィトゲンシュタインは「私は信仰を受け容れるために、理論の場所を除かねばならなかった」と言った。
彼が「信仰」と呼んでいたものは、宗教的な倫理に基づくものだということを理解しなくては、この言葉は理解できない。

 生者が死者の口を借りて歴史を語ることは危険だという。それは死者を利用していることに他ならないからだ。死者は何も語りはしない。この世にあるのは生者の言説だけだから。
 私はこの世に発声されることのなかった死者の言葉をいくつか知っている。発生し得なかった無念さも知っている。
 断っておくが、私は死者のために喋るのではない。私は私のために喋るのだ。
 死者の言葉を弄する人たちは、大同小異といい、生者の幸福のため、という。しかし、それは都合のいい嘘だ。
私は発されることのなかった声のために小異にこだわりたい。私は一生そこに拘泥し続けるだろう。私をニヒリストと称するものは、倫理を理解していない阿呆だ。

私は全ての命は守られなければいけないと信ずる。
我々は現存する生命に対して、否定するあらゆる権限もなければ、肯定する何の権限も有していない。「我々は生命から逃れられない」
かつて中野重治は、小説家は自分の作品が後世に残るようなことを考えるべきではなく、彼の作品なぞなくても平和に暮らせるような世の中が来るようにこそ努めるべきである、と言った。この言葉はいま私をいっそうの無力感に苛ませる。
私の運動は運動などなくても平和に暮らせるような世の中にするためにこそ行われたのではなかったか? 私は一体何人の命を救えたというのか? 私は憂鬱にならざるを得ない。おそらくこの憂鬱は、かつて幾人もの運動する者を心療内科に通わせたに違いない。

私は、私の心の慰みのために、と死者の口腔を借りて巧妙な出鱈目を並べる人々を知っている。彼らは親切かもしれない。しかし、それは最も倫理とは離れた場所にあるのだ。

私が倫理を口にするとき、そこには様々の不純物が-暴力が、偏見が、傲慢が-混じり合う。私はそのことを知っている。おそらく、そこは決して避けては通れない道なのだろう。だから、慎重に、それを渡っていくのだ。その繊細さは言論を弄する人間のマナーである。「マナー」とは、戒律という意味だ。

子殺しの寓話に100年の孤独を感じている暇は今の私にはない。
必要なのはもっと具体的な言葉で語り、彼を守ることではないのか。
「過ぎた」ことなどありはしない。「過ぎた」と思う人は一生石地蔵を背負っている。


     黒川梓   もう名乗られることのない名前…Glass
[PR]
by ecrits | 2008-03-03 18:27 | 思想

泥酔者の独演会場より

 あらかじめ言っておきますが、私は皆さんに教えて聞かせることができるような「理論家」ではない。また、私のことをあたかもセクシュアリティの専門家であるように言う人もいるけれど、それは全く的外れです。私にとってセクシュアリティは何かを考えるときの一つの覗き穴でしかない。そのことを、まず、お知らせしておきます。ですから、私は、自分が考えてきたことをありのままに語る他ない。おそらくそのことは、たくさんの誤解や偏向を孕んでいることでしょう。しかし、いまから私が喋ることは、その程度のものでしかないことをまずご理解ください。
 私が漠然とセクシュアリティについて考えるようになったのは、おそらく、自分の病気が影響していると思います。神経症ですね。私は幼い頃から非常に分裂的な気質でした。それが爆発したのが18の時でした。これは、ヒドかった。はっきり自分は病気だと感じました。医者にかかるのを余儀なくされたんですね。当時、私は松山から上京して千葉県の柏という街で生活していたのですが、その街に有名な精神科のお医者さんがいました。その人に診てもらった訳です。彼は、いくつかの問診やテストの後私にズバリ聞きました。あなたはドラッグを用いたことがありますか、と。私は率直にあります、と返事しました。これは、仕方ない、と感じていました。私は今でも多分にその傾向がありますが、あまり物事に対して永続的な興味を感じない。簡単に言えば、飽きっぽいのです。それに、何かの事件に対して大きい快楽を感じたことがない。そういう性質なんです。だから、ドラッグというのも苦肉の策、というか…いえ、自分のやったことを正当化するつもりはありません。それは、犯罪行為です。しかし、ドラッグにも埋没しなかった。依存症もほとんどあらわれませんでした。そうして…そう、セクシュアリティのはなしですね。そこに戻らないといけない。私はその頃から、所謂対人関係のセックスと、ビデオや本や…沢山ありますね? そういった“加工された”セックスとのあいだに大きな隔たりがあるように感じていました。大きな隔たり、というより全く別個の物を見ているような感覚がありました。そして、それは何なのだろう、どうしてそのように感じるのだろう、と考えるようになったのです。もっとも、そのように“加工された”セックスは(そのほとんどが)男性の性欲を刺激するパターンにおいて脚色されており、実質的なセックスとは無関係な部分も多い。皆さんもご存知のように、たいへん独りよがりなものに過ぎません。
 ただ、当時の、というより現在も、ですが、そのような加工品に興味がないのか、と言われると、そうでもない(笑)。やはり興味はあるわけです。しかし、その捉えかたにおいて色々と思いを巡らせるようになりました。出発点が18ですね。その時、具体的に私が何を考えていたか、というと、単純な事です。加工品はただの暴力じゃないか、ということなのです。男性性が女性性を抑圧する暴力装置ですね。そのように見えてきた。ただ、重要なのはそこではありません。本当に重要なのは、そのような暴力装置によって快楽の末端を享受している自分という存在がいる、ということです。
 私はいまもそうですが、性差に優劣があってはいけない、と考えています。優劣、というのは本質ですね。男性性には男性性の、女性性には女性性の長短があって当然です。しかし、そのことは秤にかけて比べられたりするような物ではない。独自のものです。別個のものです。だから、比べられない。しかし、頭でそういうことが分かっていても、結果として自分は女性を蹂躙するような加工品に興味を抱いている。ジレンマです。若かったから、そういうことに悩んでいました。
 ここにおられる皆さんは、非常に勤勉な学生の皆さんです。まあ、勤勉じゃないかもしれないけれど、私は今日会ったばかりだから、ほとんど何も知りません。だから、勤勉ということにしておいて下さい(笑)。そんな皆さんが果たして知っておられるかどうか分かりませんが、世の中にはセックスをめぐって多様な趣向があります。性癖、と呼ばれるものです。この「性癖」という言葉も明治の阿呆な学者が無理矢理翻訳した言葉で、例えばヨーロッパ語の原義とはかけ離れていますので、私はすぐにでも訂正すべきだと思っていますが…まあ、本題に戻ります。その性癖のなかには非常に暴力性に満ちたものが沢山ある。と、いうよりも、暴力そのものがある。暴力によって快楽を感じる人がいる、このことは重要な問題です。これは、先天的なものなのでしょうか? そして、異常な状態なのでしょうか? 結論から申し上げますと、先天的な場合もあるし、後天的な場合もある。臨床の現場でも、まだ答えが出ていません。しかし、私たちが考えなければならないのは、もっと我々の日常にある問題です。例えば、先に出ました「異常」という発想ですね。この言葉は、非常に差別的なニュアンスの強い言葉です。ハンセン病の例を出すまでもありませんね。こういう姿勢は、慎重を極めなければいけません。ただ、一方で、性のリベラルな解放にかこつけたただの暴力が蔓延していることも事実です。「ロリータコンプレックス」という言葉を皆さんもご存知ですね? これは一歩を誤れば、ただの少女虐待です。そういう比較的分母の多いであろう性癖を、何とかこじつけて暴力性をまかり通してしまおう、という傾向も最近顕著です。当然、これは批判されなければいけません。
 今回、皆さんはエイズの感染を拡大予防することと、正しい知識を啓蒙することを目的として集まられました。残念ながら、エイズに関わる種々の知識は私よりも控えていらっしゃる先生がいらっしゃいますので、ここで私がお話しすることはできません。ですが、皆さんに私から何か伝えることができるとすれば、それは先からお話させていただいた「性という暴力性」の事柄に尽きると思います。それはエイズという現実の現象にも深く根ざしていると思われます。単に思想の問題ではありません。
 「批評家」とか「哲学」という単語だけ聞くと、皆さんは絵空事を頭の中でこねくり回して悦に浸っている人、というようなイメージを抱かれるかもしれませんが、それは単純に間違っています。私は「哲学」を考えている人、というようなことを自分で意識したり、公言したことは一度もありません。しかし、考えていることが現実の問題から乖離したことは決してありません。それが倫理的であることを知っているからです。時間も迫っておりますので、ここで「倫理」とかいう言葉を解説することはできませんが、そのこともまた、「差別」と「暴力」という二項に関連しているのです。また、別の機会にお時間があれば、そのこともお話したいと思います。
 さて、最後に、今現在私が考えていることに関連して、皆さんに一つ宿題を出したいと思います。宿題、といっても提出期限はありません。皆さん一人一人の中で、じっくりと考えてみてください。先ほどから、私はセックスにセクシュアリティの均衡を崩すような暴力性が潜んでいることを指摘してきましたが、では、実際、その均衡を保つことは可能なのでしょうか? 可能だとすれば、それは一体どのようなかたちで、でしょうか。皆さんの中には過激な性癖や、露骨なフェティシズムをお持ちの方はひょっとすると、いらっしゃらないかもしれません。しかし、自分自身を考えてみたとき、その均衡は常に保たれているのでしょうか。考えてみてください。
 と、いったところで、私のおしゃべりを終わりにしたいと思います。どうも、ありがとうございました。

 これは、11月27日、愛媛県松山市の中心部で行われたエイズ撲滅キャンペーン(松山市保健所・南海放送協賛)での私の発言だ。
 学生相手に喋れ、ということだったのでレヴェルの低い基礎的なおしゃべりに堕してしまったことは百も承知。
 このときの学生達の顔といったら…。
 でも、またやると思う。
 運動とは本来こういうとんちんかんなもので、見知らぬ人に向かってメッセージは発信される。私は、ただ一個の運動家であることを忘れたことはない。決して。
[PR]
by ecrits | 2005-12-01 03:40 | 思想

続・恋愛の「責任」

 スピノザという人は所謂「倫理」について一風変わった思考をした人である。主著『エチカ』においてその概要は述べられているが、今回「恋愛」一般の問題を考える前に、その内容に少し触れておこう。
 スピノザは、こう考えた。
 この世界に人格的な神などは存在しない。彼の考えでは、「世界」と「自然」と「神」は同義である。人格神とは幼い頃の家族体験などによる想像物に過ぎない。また、彼は自由意志を否定した。この世は全て自然因果性(神)によって規定されている。ただ、人はそのような関係性があまりに複雑な為に「自由」のようなものを想定する(または、無意識的にそのような拘束から逸脱する為に)。人間の行為や思考や、そのほか全てのものは、自然因果性を越えることはできない。しかしながら、我々はこの自然因果性を“認識しようとする”ことはできる。このことこそが「神を愛する」ということであり、「倫理」という謂なのだ。

 前回、私は「恋愛」にはその積極的根拠を語ることができない故に、絶対性を求めることができず、その不可能であることを解説した。が、そもそもこの論点にはそれ以前の落とし穴が存在している。端的に言えば、それは恋愛そのものの「動機付け」である。我々は、「いかにこの恋愛を成就させるか」を問う以前に、「なぜこの恋愛でなければならないか」を問わなければならない。一般的に言えば、我々は何故無数にいる異性の中から、“この異性”を選ばなければならないのか、という問題である。形式論理学でいう、この、thisnessの問題により、実は「責任」の問題は、その発生時点において破綻している。どういうことか。
 卑近な例を考えてみよう。例えば、自分の父がガンにかかった、という場合、人は「なぜ私の父がガンにかかったのか?」と問う。これは内省である。しかし、実の所、「私の父」は「私の父」だからガンにかかったのであって、その理由は別にあるわけではない。つまり、「私の父」と「ガン」は、その、そもそもの属性を離れて考えることはできない。よって、この問いは、「なぜ私の父は私の父なのか」という問いに変換できる。大事なことは、日常において私たちはこのような疑問を抱きうる場面において、このような問題の遡行を禁じることによって、逆説的に「なぜ」という疑問詞を支えている、という点だ。そして、この種の問いは、往々にしてはじめから答えを期待していないような場面において発せられていることにも注意しておこう。
 実は恋愛において、その発生に「根拠」(或いは「必然性」と言い換えても良いだろう)など、存在していない。それは、恋愛の対象に対して、「なぜ彼女は彼女なのか」という問いを発するのと同型だからだ。これは前回にも述べた事だが、だからこそ、古典的な恋愛劇には小道具や劇的な演出(血縁関係や強制的な接触)による、もっともらしい恋愛の意味づけが行われる。

 実は、人は決して自然発生的な現象に根拠を与えることもできず、したがって、責任を持つこともできない。が、このことは、現実的なレヴェルで恋愛を放棄することや、それにまつわる責任を放棄することには繋がらない。何よりも、人は論理的な次元で恋愛したりはしないからだ。それに、そのような論理的問題を認識していることと、責任を放棄することは別な問題だと言わねばならない。人は、ホッブズの言うように、与えられた共同体と道徳の中で結果的に上手くやっていく場合の方がむしろ多い(スピノザは、当時通商の関係があった徳川幕府時代の日本人について、神もいないのに、現に倫理的に立派である、と言っている)。
 我々は、このように与えられた「恋愛」(「自然」)に抵抗することはできない。しかし、そのような抵抗の形を認識しようとすることはできる。

 恋愛の責任は、このような不自由さを認識することによって、自覚され、実践される。
 それこそが、恋愛の「倫理」なのだ。

 
 追記:前回、私は(恋愛における)「主体と責任」の関係性が近代人に特有であることを述べた。自我の確立と近代性の成り立ちについては、また、別に場を設けて論じることにしよう。
[PR]
by ecrits | 2005-09-27 03:24 | 思想

恋愛の「責任」 -夏目漱石試論

 夏目漱石は、小説『それから』のなかで、日本ではじめて三角関係のモチーフを小説の題材に採り上げたことで知られている。主人公「代助」は、旧友「平岡」の妻であり、もとは自分が「平岡」に紹介した女性であった「三千代」に恋愛感情を抱いてしまう。やがて彼は彼女への感情を抑えられなくなり、ついには「平岡」から彼女を奪い取り、共に生きていく決意を固めることになるだろう。
 今日既にありふれたものになってしまったこのような物語だが、「代助」は「三千代」に対する恋愛の根拠を、彼女の容姿や性格に求めるのではなく(無論、そのような側面もあろうが)、一種奇妙とも思える、「天意」という言葉によって説明している。要約しよう。自分(代助)が、久しく会わなかった三千代に、平岡の失業という偶然の事件から再会できたのも「天意」だし、二人がはじめからこのような苦難を乗り越えて結ばれることになるのも「天意」によって決まっていた。つまり、「天意」とは「運命」といったような意味合いで用いられている。代助は決して「久しぶりに彼女に会ってみたら、思いのほか美人になっていたから」とか「彼女が既に人妻だったから、欲しくなった」とは語らない。勿論、そのことには道徳的な不義の理由もあったろうが、それにしても、「天意」という言葉で自らの責任を転嫁してしまう姿勢は奇妙である。「運命」は常に第三者の意思により、事後的に語られるのだから。
 代助のこのような恋愛に対する態度を現象学的な視点から平板化してみよう。彼の恋愛には、そもそも「きっかけ」が存在しない(「天意」という語によって語られない)。さらに、彼は他者ではなく三千代を愛さなければならない要素を語らない。さらには、今更平岡から彼女を奪わなければならない理由は全くない。つまり、彼のこの恋愛は徹頭徹尾、不可思議である。しかしながら、彼は「天意」によりそのすべての疑問をエポケー(思考停止)してしまうのだ。我々は素直に彼の態度に疑問を抱かざるを得ない。恋愛に理由など要らない、と言ってしまえばそれまでだが。
 後述するが、実は彼こそがこの恋愛の「理由」を最も欲している人間なのだ。理由がなければ、二人の恋愛に必然性がなくなってしまう。必然性がなければ、彼は(例えば彼女を自分が守らなければならない、といったような)この恋愛の責任を負うことができない。だからこそ、たとえいかなるこじつけであっても、彼は理由が欲しいのだ。ゲーテの『トリスタンとイゾルテ』をはじめ、恋愛の古典作品の一部が、第三者の介入により結果的に二人が結ばれたり、「神」や「毒薬」などの演出により、本人達の意思とは無関係に恋愛が成立したりするのは、このパターンと同型である。そして、この「責任を負う」という因果関係こそが実に近代人を象徴している現象なのだ。

 「あなたは私を愛しているのか?」という問いに答えるのは実は極めて容易ではない。なぜだろうか。大澤真幸の『恋愛の不可能性について』はこの問題を易しく解題している。少しばかり、この著書の筋を追いながら説明していこう。
 まず、あなたは「あなたは私を愛しているのか?」という質問にどのように答えられるだろうか。もっと言えば、「あなたは私のどこが好きなの?」という問いにはどのように答えられるだろうか。
 例えば、あなたが相手のことを愛している証明として、相手の容貌や、優しさや、賢さなどを列挙したとする。しかし、それは実の所、何の回答にもなっていない。なぜなら、それらの要素は相対的なものでしかなく、「相手が相手でなければならない理由」、つまり相手の絶対性を証明することにはならないからだ。「君の優しい所が好き」という答えは、「優しさ」というカテゴリーのなかで相手を考えている時点で、既に「君でなければならない理由」から、最も遠く離れた地点に立っている。人は躍起になって誰かのことを愛していることを伝えようとしても、その裏腹に、言葉は相手の価値を相対的な尺度で測るしかなくなる事態に陥る。
 このことはキリスト教をはじめとする宗教のほとんどが、偶像崇拝を禁止したことと実は深い関係にある。「神」という概念は「神」という言葉を切り離しては考えられない。例えば、「お茶」という概念を認知する為には、「これは『コーヒー』でも『コーラ』でもなく『お茶』である」といったように「お茶」以外のものを経由して、最終的に「これは他の何ものでもなくお茶である」と考えざるを得ない。つまり、お茶を知る為にはお茶以外のものを知らなければならないのだ。しかし、「キリスト」を偶像として認知することは、先の例のように「キリスト」以外のものを言語的に認知しなくてはならない。唯一神であるキリストは、他の何ものをも経由せずはじめから終わりまで神は神である、といった立場に立たなくてはならず、ここに宗教のジレンマが生じる。このジレンマと代助の「天意」は一つのコインの裏表であることを確認しておこう。

 20歳前後の私はこの問題に深くとらわれていた。
 他者に愛情を感じたと同時に、なぜ彼女なのか、という疑問がすぐさま発生して、そこでは何者も愛せなくなってしまう。
 この地点において漱石は、ドストエフスキーが考察した、極めて20世紀的な課題-人は論理を愛するあまりにおいて、身近な他者を愛せない-の障壁を遥かに先取っている。

 私がセクシュアリティの諸問題を考え出したのはこのときの感覚が原体験になっている。結局、私はフェティッシュから逆説的に愛情を捻出する方法を考えた。しかし、このことは貨幣の矛盾と問題軸を同じにしている。たとえ、「優しさ」が「フェティッシュへの欲動」に変わったとしても、やはりそれらに尺度が存在する限り、いくらでも問題は伸縮する(つまり、貨幣はその価値そのものとは別に、貨幣がより大きい貨幣を欲する欲望のループとして機能する)。

 ここ数年、倫理的な問題についてカントからスピノザを読み、スピノザからカントを読むような思考を展開してきた私は「他者」と「責任」というキーワードの元に、ようやくこの問題に論理的な筋道をつけることができた。が、ここではその示唆に留まろう。次回以降、少しずつ問題を敷衍しながら「責任なき意思」のポストモダンな条件について語ることにする。
[PR]
by ecrits | 2005-09-17 03:30 | 思想

他者と倫理

 柄谷行人が昔(というか今も)、我々は未来の他者に対する責任がある、と度々口にしていたことがある。このことは一体何を意味しているのか。また、「未来の他者」とは具体的に何のことか。最近、連日のように「倫理」という事柄を考えている私にとって、この考え方は意外に重要な示唆を与えている。ではまず、この「未来の他者」という言葉を反芻しながら、少しずつ「倫理」へ向かって問題を解きほぐしていくことにしよう。

 例えば、私が私怨から誰かを殺めたとする。このとき、人を殺めたことの「責任」はどこに存在するのか。これは、いうまでもなく「私」にある。私はそのために刑事的な処罰を受けなければならないし、単純な話、刑務所に入らなければならない。このことは、“器物を損壊した”“人に不利益になることをした”“人の心を傷つけた”場合でも問題の大小はあれ、原罪という根幹は同型である。
 少し問題を押しすすめて考えてみよう。我々の「責任」は果たして現存している人やモノに対してのみ課せられているのだろうか。
 エコロジー運動を例にとろう。産業革命以後、我々がエネルギー資源として活用してきた化石燃料は、このままのペースで消費すれば、石油は約34年、天然ガスは約55年で枯渇するという試算が発表されている。しかし、現在50歳の人間が放っておいてもゆうに30年持つ石油資源が存在するのに、わざわざ「地球に優しい」運動をする必要があるだろうか。これは、当然と言えば当然過ぎる疑問である。
 ここにおいて発生する「責任」の形が「未来の他者への責任」である。つまり、「未来の他者」とはより具体的には、われわれの子供や孫を指している。50歳の人間が死ぬまでに消費する資源については問題ない。しかしながら、それでは自分の子供たちが使う資源が消尽してしまう。だからこそ、代替エネルギーの開発やリサイクルの運動は彼らにとって有用である限り、我々に課せられている「責任」の問題なのだ。

 イマニュエル・カントは、このような未来的に問題を持ち越す課題を「統制的理念」と呼んだ。彼の「恒久平和」という統制的理念が1945年に国際連合を生んだことはあまりにも有名な史実である。
 ここで注意しなければならないのは、このように仮定された「他者」や「理念」には神秘的な色彩が一切ない、という事実である。エコロジーや恒久平和の例が示すように、それらは将来的に達成されるべき課題なのであって、単純な妄想とはレヴェルを異にしている。それらの「理念」がいかに現実と乖離していようとも、それは達成されなければならないという地平において、まさに“恒久的”に働き続ける。繰り返すが、これは単純なスローガンではない。それどころか、非常に計画的に我々を拘束する足枷なのである。

 「倫理」という難しい概念は、この地点において考え直さなければならない。
 統制的理念は我々ではない人々(つまり他者)に向けて放たれた光芒である。我々は常に現在的な存在でしかありえないので、倫理の問題を持ち出すことは、発信者の倫理的イデオローグにすぐさま組み替えられてしまう。他者に対する責任。このことこそが唯一「倫理」を可能にしているのだ。これは逆説的な倫理の不自由さである。倫理という問題を道徳的なものかのように考えている連中は、このような基本的な思考すら不徹底なのである。
[PR]
by ecrits | 2005-09-08 02:27 | 思想