カテゴリ:批評( 6 )

『ALICE』/ラーメンズ

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 「mixi」にこう書いた。

  ④商業的成功の回避
 例えば『後藤を待ちながら』で私が究極的に失敗だと思うのは、それが『ゴドー』のようにいずれ全世界に散種され、世界中の劇場や、あげくのはてには吉本興業的マンザイまでが、それを模倣することを、することの可能性を、この作品ははじめからあきらめている-いや、というよりは、むしろあきらめることによって成立している-ことだ。彼らの作品にしばしば見受けられるこの回避は、結果的に彼らの作品をオタク的自閉に閉じ込めてしまっている(おそらくは、その状態は彼らが最も望まなかった状況のはずだ)。模倣が悪いのではない。模倣でしかない、という諦念が貧しいのだ。
 彼らが半ば意識的に行うこの回避は、彼らの致命点である。小規模な商業的成功(精巧)は、むしろ松本人志以前への退行だろう。

 もう、これで尽きていると思うから、これ以上書かない。

 ただ、“USJ”=“United State Of Japan”は恐れ入った。
 このブログは批評でやる主旨できているから、正直に言う。
 あれだけでも価値があると思う。

 本当に良い芸術というものは、一般の客にも、インテリ向けにもちゃんと楽しめるようにエンターテインされているものだ。
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by ecrits | 2006-06-03 04:41 | 批評

これは決して恋愛ではない~行定勲『春の雪』鑑賞後~   「松山シネマ倶楽部」さんへ

 実に分かりやすいイメージの連鎖によって撮られた映画である。
 主人公松枝清顕(妻夫木聡)は、貴族の名門松枝家の嫡男。一方、ヒロインの綾倉聡子(竹内結子)は斜陽の伯爵令嬢。綾倉家は恩義から松枝家にプライドを蹂躙され、ひそかな復讐心を抱く。そのことは、清顕と聡子を肉体関係にさせることによって実現されるが、清顕は聡子に対して自分の感情を上手く表現することができない。遅々として進行しない二人の関係。幼馴染みの二人は、やがて綾倉家の思惑通り恋仲になってゆく。しかし、ふとしたきっかけから綾倉家に宮家の洞院宮治典王(及川光博)との縁談が持ち上がる。清顕は素直になれない自分の気持ちから一時は聡子を突き放すが、それはやがて手に入れられないものへの飽くなき欲動として復活するだろう。二人は人目を忍んで逢瀬を重ねるが、聡子の妊娠という事件により、関係は決定的に亀裂を生じはじめる…。

 冒頭に反復される「春の雪」というモティーフは、「蝶」「夢」「破り捨てられた手紙」「セックス」「妊娠」「喀血」「桜」とかたちを変えて変奏され、物語に一貫した“欠落”を印象付けている。さらに、近代文学の素材として欠くことのできない「自意識」「処女性」「博愛主義」「病」などがふんだんに盛り込まれていて、まさに“その筋”では一級品。しかし、今日我々がこの映画で目の当たりにするのは、そのような近代の幻想ではなく、むしろそのような「無意識の制度」が孕んでいた甚だしい暴力性である。
 「それ以上が欲しい」と口癖のようにつぶやく主人公は、親友の本田(高岡蒼佑)に「はじめから金も権力も歯が立たないバケモノを相手にしたのだ! 貴様は幻を見た」といわれても気付かず、「今オレはやっと本当に欲している物が分かった」とのたまう―余談になるが、「本田」は三島自身の分身として描かれており、剣道部に所属し、同性愛を連想させていたことは興味深い―。しかし、彼は全く理解しない。「バケモノ」とは自分自身であり、はじめからどこも何者も障害ではなかったことを。そしてまた、彼を悲劇の主人公に祭り上げてしまう「物語」こそが近代という“二重の病”なのだ。そしてそれは結果として聡子を堕胎に追い込む。

 恋愛と物語は異なるものだ。
 端的にこれは恋愛の映画として成立していない。他者を把握できない恋愛ははじめから破綻しているからだ。
 繰り返すが、この映画において「恋愛」は扱われていない。私が感じたのは、この程度の感傷癖に過ぎない自意識を未だに恋愛と捉え違えてしまう精神の幼稚さだ。彼らは未だ近代から脱却できていない。いや、むしろ、近代に退行している。
 考えることを放棄し、美しい妄想に浸ることの快楽を要請するこの映画は、右傾化する社会を象徴するものとして記憶に残るものだった。

 否定的な要素ばかり並べていても仕方がない。
 妻夫木聡の演技は最悪だが(人間性の醜悪な部分だけが好演されているように感じた。それはそれで成功かもしれない)、清顕の祖母を演じた岸田今日子は、この映画の唯一の救いだった。出演シーンはわずかながら、これだけの印象を残す存在感は、流石に他の役者の及ぶ所ではない、といったところか。
 及川光博の演技も素晴らしかったが、私にはどう見ても鳥肌実に見えて仕方なかった。
 宇多田ヒカルのテーマ曲はMiscarriage(難産=誤配)の印象が拭えないが、クレジットまで見終わって観客は、ふと思うのだ。―はて、これが『Be My Last』だろうか?―と。
 いい加減、我々はこのような反復から眼を覚まさなくてはならない。
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by ecrits | 2005-11-02 03:50 | 批評

美学化に抵抗する為に/ラーメンズ/坂口安吾

 叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。  坂口安吾『日本文化私観』

 松山の映像作家を目指す若い専門学生にラーメンズについて何かしゃべってくれ、と頼まれた。生憎私は人にしゃべって聴かせるほどのラーメンズファンでもなければ、研究者でもない。彼らに聴かせて身になることなど、おそらく一つもないのではないかと思っている。私が言下にお断りすると、いや、何でもいいのでしゃべれ、と言う。以前にもこのブログで書いたが、私はラーメンズをそれほど評価していない。自分の関心に引き付けて読むから、まだ有難みも出てくるけれど、やはり、サブカル的なものはその次元で評価の対象になればいいのであって、所謂大文字の「思想」とか何とかと結び付けて考えるべきものではない。もっとも、「思想」などという胡散臭いものよりラーメンズのほうがものを考える上でリアリティがある、という若い人たちの気持ちも分からないではないのだが。
 「暴力的に読み替えたラーメンズしか話しませんよ」と、エクスキューズをつけておいて、しぶしぶ引き受けた。それ以来、約一週間にわたって彼らの作品をヴィデオでもう一度見返しながらノートを取る作業を始めた。厳密な意味で「作品」にこだわると、書かれたものや造形されたもの、パフォーマンスや他のグループとのコラボレーションなど、裾野が果てしなく広がっていくから、今回は定期公演の現段階で映像化されている作品群に対象を絞ることにした(つまり『Home』から『Study』までの10作品)。そこで私が再発見したのは、私が今日「文学」という言葉で考えさせられている内容と意外にもぴったり不即不離の関係であった。これは私にとって、新鮮な驚きだった。ここでその全てを語ることはできないが、文学とその周縁をめぐって、ラーメンズの「方法」を少しずつInterpretation(解釈=通訳=演奏)していこう。

 ラーメンズの公演を観ていると、時折、複数のコードが独自に展開され、結果的に、それが物語的な話の本筋を乱してしまうような場面に遭遇することがある。例えば、「ドーデスという男」(『FLAT』収録)のドーデスの病気は主人公の縁談とは無関係だし、「アトムより」(『ATOM』収録)の“お前”の口癖は二人の散歩のタイミングを阻害し続ける、といった具合に。我々はこのことをどう解釈すべきだろうか。そこには、意外に大きな問題系が隠蔽されていると思われる。
 彼らが演じる演目の中で、登場する二人が友人関係である作品は「器用で不器用な男と不器用で器用な男」(『鯨』収録)を除いて、その友好関係がどこかしら破綻している場合が多い。前出の「アトムより」にいたっては、結局、二者間の交友関係が初めから存在していない。“富樫くん”という主人公と“お前”は、“お前”がロボットだったというオチからして、初めから巧妙に偽装された主従関係に過ぎず、そこには「会話」がない。あるとすれば、それは「自分が話すのを聴く」といったような一方通行の内省だけであり、「他者」と話す、というコミュニケートの関係は無視されている。余談になるが、この作品において、二人の友情を物語的に語る者は、コミュニケーションの基礎的な慎ましさが甚だしく欠落していると思われる。「他者」とは、常に発話のポリフォニー(バフチン)を曲解し続ける人間であり、それは友人とて例外ではない。むしろ、人と人とはそのように歪曲した関係性こそ自然なのであり、安易に他者と自己とを同一視して語りたがるものは、そのことによって逆説的に自閉的なモノローグに囲い込まれてしまう。では、小林健太郎が企図した複数のコードの衝突による雑音とは一体何を意味するのだろうか。

 坂口安吾は『日本文化私観』において、文学とは生存それ自体が孕んでいる孤独から出発するものだ、と言っている。どういうことか。
 彼が「孤独」という言葉で考えているものは家庭であり日本だった。
 我々は日本に生まれついたが故に日本人であるしかなく、家に生まれついたが故に家庭人であるほかない。そこには奇妙な「うしろめたさ」がある。なぜなら、我々はそれらの基本属性を離れて物事を考える事はできないからだ。しかし、彼はこのような絶対的な「孤独」を否定的なニュアンスで捉えていない。文学が帰るさきは家であれ家庭であれ日本であれ、そんなことは重要ではない。そうではなく、そこに回帰しようとする「うしろめたさ」こそが文学のふるさとなのだ。「うしろめたさ」を回帰に伴う感傷で処理してしまえば、それは結果として単純な保身に堕してしまう。そうではなく、「うしろめたさ」を文学が生まれてくる起点として、積極的に偏差を捉え返そうと意識するとき、そのような地点から書かれる文学は常に美学的回帰に対する実質的な抵抗力となりうるからである。そして、彼が闘争していたものは実は「家庭」でも「日本人」でもなく、実は「侵略戦争」であり「ファシズム」であった。ナショナリズムほど容易に発生し、感染力の高い思想は他にない。だからこそ、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争中の「美しさ」に彼は惚れ惚れとしながら、しかしその実、思考する地点を彼は文学によって手放すことがなかったのだった。

 ラーメンズの作品を鑑賞していると、私はしばしば坂口安吾が感じたような「孤独」を体感することがある。それは、物語化の欲望とは遠く離れたものだ。「音遊」(『雀』収録)は12音階と長調のメロディに抵抗する試みであり、「新噺」(『ATOM』収録)は落語への抵抗のかたちである(落語は自己のズレ-自分の声が録音されたテープを聴いたときに感じる違和-を象徴している)。
 ラーメンズの舞台は、このような視点において、そのまま舞台批判であるともいえる。演じられるが、決して消えないノイズとして物語の進行を阻止する出来事は、政治の美学化に抵抗する美学の政治化(ベンヤミン)である。大切なのは、ラーメンズに対してオタク的囲い込みをしようとする美学派に対して、現実的にも彼らの作品自体が「批評」の形態を成している事ではなかろうか。 
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by ecrits | 2005-10-21 01:36 | 批評

ラーメンズの可能性

 数年前から何かの折にふれてラーメンズを褒めていたら、何の因果か、自分が芝居に関わることになっていた。とはいっても、私はそもそも演者として、或いは脚本や演出のかたちで舞台に関わったことが一度としてない人間であって、そのような私に深遠な演劇の論理など一朝一夕に理解できるはずもなく、私は自分の考えてきたことの可能性を舞台という場所で表現できるのではないかと考えて、唯我独尊にやらせて頂いているだけの話ではあるのだが。
 本でもそうだ。「何を読めばいいですか」。この手の質問が一番困る。まず、今のあなたは何に対して、どのような問題意識を抱いているのか。思考するに足る基礎的な知識は備わっているのか。現在、どのような物事をどのようなレヴェルで考えているのか。それら一つ一つの問いの回答によっておのずとアドヴァイスも違ってくる。そもそも私は人に対してアドヴァイスできるほど頭の良い人間ではないので、過去の自分を顧みて、思想を勉強してみたい、という若い人には「岩波文庫でいいと思います」と答えるようにしている。50%のヤケと50%の期待。若い人が読めるか否かは別にして、そこで引っかかってこない奴はそもそもその先の努力へ進めない。こう言うと、馬鹿な私が学生をふるいにかけているような気がして、流石に気が重いのだが。
 舞台で人を笑わせてみたい、という。なるほど、そうか。しかし、どんなものが面白いと思う? と尋ねたら、口をつぐんでしまった。自分が何が面白いのか分かっていない連中に、人を笑わせる技術が習得できるとはとても思えない。悩みに悩んで出た結論が、「どんなものを見ればいいですか?」。来たな!と思う。そんなに真面目に考えたいのなら、そもそも私に聞きにくるのがお門違いだ。
 ラーメンズの「日本語学校アメリカン」(『椿』収録)を見せて、反応をうかがう。これは私にとっての試金石だ。笑ったから良くて、笑わなかったから駄目、というのではない。私が知りたいのは“笑う”という行為を真剣に考えている人間が、言語の物質性にどれだけ敏感か、ということなのだから。案の定、笑う人もいる。首をかしげる人もいる。ただ、たいていは笑う。笑った後に吐くお決まりの台詞。「シュールですね」。この言葉は聞き飽きた。まず「シュール」という言葉を百科事典で引いてみるところからはじめてみてはどうだろうか。

 例えベルグソンを勉強していなくても、文化人類学なんてやらなくても、「面白い」ことは直感的に理解できる、という日本人の不思議さ。しかもあながちピントがずれているわけでもなく。これはすごいと思う。だから一層貪欲になる。貪欲になると、方法論を模索し始める。可能性は広がっていくように思えるかもしれないが、これが難しい。ラーメンズという固有名をドイツ語の「額」から拝借した、というもっともらしい言い訳は、それが真実であるか否かを問題とせずして、妙に真実味がある話だ。その意味では、わたしはダウンタウンも「ラーメンズ」だったと思う。彼らの「コペルニクス的転回」は「額」を破壊してしまった。すべてをひっくり返した。

 笑いの根源的な難しさは、「言語が言語のための言語でしかない」(ゲーデル)ところに端を発している。人は、言語を外部から、或いは超越的に語ろうとするが、そのための「言語」がすでに「言語」によってしか語りえないので、その瞬間に再び「言語」の内部に閉じ込められてしまう。実は、人は言語によっては何ものも語る(意味づける=名付ける)ことは出来ないのだ。この不可避的なパラドクスゆえに人は笑う。確認しておかなければならないのは、「笑い」とはこのような無意識の「抵抗」のかたちであるということだ。
 例えばダウンタウンはこのような無根拠性を直感的に理解していたという点において卓越していたと私は感じる。このことは、何も彼らが知的に特別だったことを意味してはいない。ポストモダン的な状況が徹底化された90年代に、彼らが笑いのためのフィールドとして選んだのは「学校」であり「家庭環境」であり「幼児体験」だった。もはやそのような原始的な共同体以外に共時性を求めることができないほど、我々を巡る時代的な状況は貧困になってしまったのだ。このことは単純に驚くべきことだ。彼らの笑いは一種の「底突き」(後藤明生)的な状況に置かれていると言って良いだろう。だから松本人志はあれほどまでに笑いのフォームそのものを提出するのだ。

 ラーメンズが難解だ、という評価を聞く。率直に言って、阿呆ではないかと思う。彼らにしても、取るに足りないような下らないコント(辞典を引くついでに、この言葉も調べておくと良いかもしれない)がいくつもある。一般教養的なものが軽んぜられ、いたずらな情報の拡散と想像力の減退か著しくなった今日、そのような「教養」がラーメンズより遥かにクオリティの高い笑いを生んでいた時代と比較すれば、難解という評価は「欠落が欠落している」(大澤真幸)と言わざるを得ないのではないか。しかしながら、現代という方向に極端にねじ曲がってしまった鉄の棒を、元の方向へ曲げ直す試みは微力ながらも無視されてはならない。
 ラーメンズは告発している。「中大兄皇子」はもはや「なかのONOG」であり、「運慶・快慶」は「天気予報」だし、「天草四郎」は「A(The) Max A Shallow」に過ぎず、「螺鈿紫檀古弦琵琶」にいたっては外国語のようにしか聞こえなくなってしまった…そのことの可能性と危機感を。
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by ecrits | 2005-09-10 06:10 | 批評

岩井俊二『四月物語』を再発見する/2003.4.7 『others』初出

 先日、親しい友人たちの呼びかけで花見に参加する機会を得た。まだ肌寒さが残る4月初旬の日曜、それまで連日のように雨が降っていたその中晴れの昼下がりに、われわれは松山市の城東、石手川の土手沿いに集合した。
 市内を東から南に切断するように流れるその川は、源流を奥道後の静かな湧き水に保ち、今日でこそ上流に広大なダムを有しているものの、かつては白鷺が羽を休める優雅な流れを見せていた。住宅街がまばらに点在する中流域に差し掛かるころの千本桜は桜の見所で、毎年この時期になると大勢の花見客が訪れる。
 格別な挨拶もないまま、いつ終わるとも知れぬ宴の席の途中で、私は何気ない心持で舞い散る桜吹雪を見、ふと岩井俊二の『四月物語』を思い出していた。

 『スワロウテイル』(96年)、『リリイ・シュシュのすべて』(01年)などの作品で知られる映画監督岩井俊二が製作した、大学進学のために上京してきた18才の少女の物語。
 主人公の楡野卯月(松たかこ)は北海道の旭川出身。上京し、慣れない新生活の日々をスタートさせる。ある日、彼女は学生同士の自己紹介で「なぜこの大学を受けたのか」と質問され、答えに詰まってしまう。彼女には高校時代に想いを寄せていた先輩がおり、彼女は彼の進学先である武蔵野大学を受験し、合格したのだ。
 やがて彼女は山崎先輩(田辺誠一)がアルバイトをしている書店「武蔵野堂」を尋ね、再開を果たし喜びに胸を躍らせることとなる。

 作品としては、この作者の繰り返すモチーフ「美しき恋愛物語」に終止したストーリーで、そもそも批評に値する作品ではない。作品序盤に執拗なまでに展開される、大量の桜吹雪が舞い散るシーンの反復は、新生活の始まりを予感させ、それなりに華麗ではあるが、やはりイメージの弱々しさを露骨に感じさせるカット割り(特にタクシーの運転手に道を尋ねる引越しのトラックが通り過ぎ、そこに白無垢姿の花嫁が乗り込むシーンなど)によって、いかにも貧相な映像に仕上がってしまっている(その貧相なイメージを意識して演出しているのだから余計にタチが悪いというべきか)。
 私はこの作品を渋谷の映画館のレイトショーではじめて観た。その時は『リリイ・シュシュのすべて』の先行公開の会場であり、『リリイ』を含む3本立ての一本として観たように記憶している。『リリイ』が、あまりにも貧しく、いや、その貧しさこそが今日という現代のリアルであることの証明だったのに対し、この作品は言わば「終わりなき自意識」の貧しさに貫かれている。柴門ふみは、この作品を「ひたむきな少女の正しさ」が描かれているとして絶賛しているが、もはや阿呆としか言いようがあるまい。この作品を賞賛することも批判することも、あまりにも易しいのだから。

 『四月物語』は終わることのないモノローグである。そこには感傷以外が入り込む余地はない。
 作中、先輩が一足先に進学した武蔵野大学という名称から「武蔵野」という記号を取り出し、「それ以来武蔵野は私の特別な場所になった」とつぶやく少女は、国木田独歩の『武蔵野』を愛読書にし、まだ見ぬ武蔵野の風景(それはまさに自意識特有の「どこにもない場所」として機能している)を夢想する。日露戦争後、日本近代文学の起源ともなった『武蔵野』という風景が実は自らの「内面の発見」(柄谷行人)であったこととそれは、おそらく無関係ではありえないだろう。

 しかし、かく言う私自身もそのような不純な動機によって上京のために進学を決めた一人であってみれば、これは他人事ではない。“外部=他者”を理解できないこと、それが若さということなのかもしれない。
 新高校生、新大学生、とにかく「内面という観念の曖昧さ」(小林秀雄)に足元を掬われている間に、噛み締めておきたい映画。


  ※この文章は、作者が運営していた情報配信企画『others』で、2003年4月7日に公開されたものに、作者自身が加筆・訂正を施したものです。
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by ecrits | 2005-09-01 04:24 | 批評

槇原敬之をめぐって/2005.8.26 『邂逅』初出

   君は誰と幸せなあくびをしますか/槇原敬之

 後に、初期三部作と呼ばれるシリーズの第二段として製作されたこのCDアルバムには、彼の名を一躍有名にした『どんなときも』をはじめとする全11曲が収録されている。『どんなときも』は織田裕二、的場浩司、坂上忍、和久井映見ら当時の新鋭俳優をキャスティングし、フジテレビジョンによって製作された『就職戦線異状なし』(1991年6月22日公開)のタイアップ曲として、現在までにミリオンセールスを達成している。
 このことを特筆するのは、彼が「恋愛を歌うこと」がひとつのイデオロギーとなり得た時代に出発したことを確認するためである。高度成長期からバブル末期にあたる60年代後半~90年代にかけての共通意識として、青春の不安は大人になることの不安であり、失恋による自意識的な悔恨は、同情と共感を同世代で共有(!)することが可能だった。現代思想的に言い換えれば、「戦後」後からバブルまでの世相は、社会における「象徴界」(ラカン)の力を衰えさせる前段階であり、この時期において今日ほどポストモダン的な状況は徹底化されていなかったのだ。このような時代背景に色濃く影響された彼の作品群の完成度は、同時代の他の作品と比較しても水際立っている。「もてない男」の自意識的な肖像画を描くことは、当時既に消尽され尽くしてしまっていた、私小説という伝統芸の延長としても、文化的に許容されていたのである。

 だが後年、彼が自らをゲイであると告白したことにより、このような視線は180度転換してしまう。爾来、多くのライターによって、過去の私小説的な作品の数々を同性愛的に読む試みがなされてきたが(それらの多くが、いたずらに偏見に満ちたものであったことをここでは確認しておくべきであろう)、やはりそれは、異性愛を前提とした創作であったことが検証されている。
 彼は自らの作品を恋愛によってドラマタイズし、また同時にそれらの経験について偽証し続けることによって、相容れない二つの要素‐この場合ホモセクシュアルとヘテロセクシュアル‐に対しいずれも否をとなえる姿勢を発見した。これは非常に分裂病的な状態といえる。しかし、この方法(自己パラドクス)によって、彼は主観に依拠することのない、「外部」の気味の悪さのようなものをつかむことに、一時、奇跡的に成功していた。そこには苦悩に満ちた、そして何か迫力のある危機意識がある。私が彼を評価するのはこの点だ。メッセージではない。
 無論、このようなたくらみによって意図的に作り出された外部が、果たして「他者」に触れているかどうかは、甚だ疑問である。むしろ、そこは「他者」から遠く離れた地点といってよい。彼はこのあと初期の物語を否定するかのように、自己の内面世界やドラッグに傾倒していくのだが、やはりそこにも「他者」を発見することはできなかった。彼は恋愛を作らなくなって後、必然的に停滞してしまう。これこそが自意識という「孤独地獄」(芥川龍之介)に堕ちた男の末路なのだ。
 大切なことは、もっと率直に、そしてもっと素直に、考え、語られなければならない。

CDアルバム/1991.9.25発売
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by ecrits | 2005-08-26 20:42 | 批評