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批評にとって作者とは何を意味するか ~differend6氏への応答~

 以前、このexiteブログでお世話になっていたdifferend6氏のブログ(politique de la Représentation )にて興味深いご指摘を頂いた。それは「作者」をめぐる諸問題である。したがって、この論点は爾来飽きるほど繰り返されてきた「作品」と「作者」の関わり(つまりはテクスト論的読み)の域を出ないかもしれない。しかしながら、ここでは「批評」のスタイルを巡って一つの到達点があるように思われる。で、あるから、私は少しばかり自分の姿勢をはっきりとさせておく。おそらくそのことは私の指標を表明することでもあろうから。
 断っておくが、differend6氏の映画批評はそれ自体立派に完成されたものであり、わたしが口を挟むべきようなものではない。私は年少の氏に敬意を表している。

 氏は同ブログにおいて、槇原敬之の『雷が鳴る前に』を歌詞から表層分析し、そこから「距離」「願掛け」「自然」というキイワードを取り出し、「雷」との関連性を分析している。
 私がこの曲を知ったのはおそらくは中学生の時分だったと記憶するが、雷が鳴ることと電話で話すことの間にある「ズレ」-つまりは、ほぼオンタイムで話者間をつなぐ電話によるコミュニケーションと、若干の時差を伴う雷(それは二人の微妙な距離を暗示している)の存在がこの状況では重複している-をなんとなく直感していた。それゆえに、バブル末期を象徴するようなこの種の彼の作品群の“凝りよう”に当時は耽溺していた。
 余談になるが、「雷の中で公衆電話から恋人に電話する」という状況はラッセルのパラドクスに酷似している。

 私は氏に言う。
 この「ズレ」は彼が実際にはゲイであったこととパラレルだ、と。
 聴き手が異性間の恋愛を想定しているにもかかわらず、現実的に彼が夢想していたのは同性間の恋愛であった。無論、作品の内容が事実であったかどうかは問題ではない。槇原敬之の面白さは、常にこの種の「ズレ」を孕んでいることであり、聴き手が(まさに表層の)作者を捉えようとすると、その瞬間に作者は別の地点に移動しているという捉えどころのなさなのだ。
 このことは恋愛に限らない。一々例証をあげることはしないが、彼が逮捕後に帰るべき場所(「Home」)と言っていたのは現実的に大阪ではなく、どこにもない場所であり、恒久平和の夢想に他ならない。
 この点は彼の作品の面白みであるが、と同時に、彼の作品を何か「後味の悪いもの」にしてしまっている。彼が妄想や禅にしか依拠できないのは致命的である。だからこそ、彼の作品はその魅力を語ると同時に彼のどうしようもなさを語らざるを得ない。その意味で、私は「極めて単純な意味で彼は下らない」と言った。

 氏はこれに反論している。
 氏は、作品に触れる時「そこに作者の影を見てしまうのは実際テクスト論でもなんでもなく、ただあのルネサンス以降執拗に繰り返されてきた啓蒙の図式に他ならないと、肌で感じてい」る。そして、「「槇原敬之の性的指向」といったような、それこそ伝記的事実と作品を練り合わせる行為は、槇原自身に関心があるならば勿論必要なプロセスに違いないのでしょうが(それは作品に対してはindex的な役割を果たすように思えます)、しかし作品それ自体と対峙するにあたっては何の意味もない」という。
 氏は個人的に「かなり前から、作品に作者の影、若しくは作者自身を見る批評方法にひどく違和感を覚えていた。というよりは、退屈に感じていた」と言っているのだから、この主旨は充分に理解できるものだ。皮膚感覚、と言うものだろうか。

 率直に言って、私は「啓蒙の図式」も「テクスト論」も「作者論」も全て同様に退屈だ。
 繰り返すが、私は槇原敬之を単純に下らないと思っている。本来ならば、批評で口を出すようなものではない。つまり、論外。
 私が面白みを見出したものは『雷が鳴る前に』のテクストではない。そこにあるズレなのだ。作者がある、ということ。そして、作者がズレを抱えながら転進したということ。そのことは作者論とは何の関係もない。

 私は、厳密には批評に方法などないと思っている。
 好きなように読めばいい。
 問題なのは、そこに批評としての可能性をいかに見出せるかということだ。
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by ecrits | 2006-05-22 04:41 | 質疑応答

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅲ)


 ※諸事情により連載が長期間滞りましたことを先ずは深くお詫び申し上げます。   管理人



 以上、『GB』や『大ガラス』本体との一通りの照合作業によって、私たちの仮説が、ある程度的を射ていることが証明できたように思われる。しかし最後に、いまだ検証が行われていない重要な概念がある。それは、この『GB』の物語を動かす原因であり、また目的でもある「欲望」のことである。『大ガラス』において、欲望の占める位置とは何であろうか。
 よって以下の節において、この欲望の解読を試みることにする。
 以下の節が、本論の主旨からいささか逸れていることを了承されたい。


 『大ガラス』での欲望の性質は、『GB』の物語の内容、もしくはその物語に登場するのが、「花嫁」と独身の男たちであることを顧慮すると、性的なものであることは先ず疑いを入れない。しかしながら、ここで「性欲」を日常的な意味で受け取ってはならない。と、いうのも、独身者機械はともかく「花嫁」の性欲の衝動は独身者達による裸体化と平行して起きているからである。つまり「花嫁」の性欲は、最初は対象性の希薄な、内的な動機によって発生するものであると考えなければならない。では、性欲の想起の原因とは一体何か。

 ラカンは欲望の運動を差異化と位置付けた。 この構造化する運動は、知覚を差異化して知覚シニフィアンとし(一次微分)、さらに知覚シニフィアン相互を差異化して言語シニフィアンを生み出した(二次微分)。さらにこの運動はシーニュを生み出し(三次微分)、シーニュを差異化して意味の次元を現出させることになった(四次微分)。
 -そして、ここが最も重要であるのだが-さらに意味は身体の快感領域によって差異化され、ラカンのいう享楽になる。
 「照明用ガス」や、鏡の反射などの概念と知覚シニフィアンなどとの厳密な因果性についての考察は、さしあたっては必要ない。むしろ、注意を払わなければならないのは、意味が身体の快感領域によって差異化され、それが享楽になることである。フロイトの指摘にあるように、幼児の性欲は、成人のそれ(性器欲)とは異なり、口唇や肛門などの諸器官と結びつくもの(部分性欲)である。また、乳児が自らの糞便(肛門によって排泄されるもの)を乳房(口唇を通して栄養を与えるもの)や母の胎内に投入し、そのことによって自分が世界そのものになってしまう過程を、メラニー・クラインは「投射による同一化」と呼んだ。この投射による同一化が働いている間、子供は自分や対象の各部分を用いて、対象の属性を統御している。子供は、身体のばらばらの各部分とだけ関係を持ち、それをどのように繋ぎ合わせてみても、「人間」にはならないのである。
 この身体の不安定な状態を脱するのに不可欠なのが鏡であり、そこに映し出された自己の統一体である。ラカンが鏡像段階と名付けたこの期間において、子供は自己の統一像を“視覚”によって先取りし、自己の同一性に歓喜する。
 『大ガラス』における「花嫁」は、もとの三次元連続体の身体を、ガラスという二次元の連続体によって切断されていた。つまり『大ガラス』上の「花嫁」は、寸断された身体の一部でしかないのである。さらに厳密には、この寸断された身体は、それを無限に積層したとしても三次元の連続体にはならない。「厚み(高さ)」の概念が存在していないのが二次元空間だからである。
 この無限の切断による部分の身体から、その積層への不可逆性が問題であり、ここにおいて、この部分性欲及び鏡像段階と「花嫁」の性欲の在りどころとの関係が明白となる。
 つまり「花嫁」は、二次元の連続体である支持体の切断により、二次元の物体である独身者機械の性欲を部分的に感知することが可能であったが、しかし、まさにそれが原因となって、自己の統一像を捉えられない不安定な状態にあった(ばらばらの身体であってみれば、それをどのように組み合わせても人間にはならない)。しかし、「照明用ガス」の打ち上げの時に使用される「眼科医の証人」の鏡によって、「花嫁」は視覚的な自身の統一体を見出すにいたるのである。「花嫁」の快楽とは、したがって自己同一性の獲得による歓喜の別称であると考えられるのである。
 しかし、この鏡像段階が主体に与える悦楽と満足感は、決して長続きはしない。なぜならば、それは鏡の中の自己と、それを見ている主体とを切り離すことを要求するからである。主体は、突き放された形でしか自らを同定し得ないという疎外感を必然的に受ける(『ただ空しく、欲望に火照った花嫁の裸体だけが、処女のまま残る…』)のである。
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by ecrits | 2006-05-15 04:13 | 論考