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Annameable

     黒川梓   もう名乗られることのない名前…Glass


 全ては技巧の問題だという。だが、果たして本当にそうだろうか。
 たとえば、ある女性が、暮れの迫った夕闇の中で、公衆電話から電話を掛けているとする。電話の相手は男性らしい。二人は恋愛関係にあって、そのときは何か取り留めのない話しをしている。
 ふと、彼女は肌に夜の風を感じて思わず身震いする。「冷たい…」と、言う。
 この言葉はほとんど身体上の反射である。しかしながら、「冷たい」と思わず口にしたとき、彼女は「冷たい」のが身体の条件なのか、彼の応対なのか、二人の関係の間の距離のことなのかを咄嗟に自身で判断ができない。
 受話器の向こう側にいる男性は「どうしたの? 大丈夫?」という。
 彼は畢竟彼女の身体が大丈夫かどうかを心配しているのだ。
 彼女は「大丈夫かどうか?」という質問に対して、ついには何も答えられなくなってしまう。大丈夫なのは身体であるのか、自分の心であるのか、また自分はそれに対して何と答えればよいのか。大丈夫なのか、あるいは大丈夫ではないのか。自分の感情はどうなのか。
 彼女は自分が嘘を言っているかのように錯覚し、軽い眩暈を覚える…

 我々が何らかの過失をはたらくとき、厳密な意味でそれを完全に贖罪することはできない。なぜなら、過失自体がすでに過去のものであるからだ。我々はそのことのために、常に事後的である他はない。神への懺悔はこのことを補填する。
我々が「責任」と呼び、「主体」と呼ぶものも、結局はそのように過去から塗り込められた情報に拠っている。我々はこのことを一体どのように理解すべきだろうか。

ウィトゲンシュタインは「私は信仰を受け容れるために、理論の場所を除かねばならなかった」と言った。
彼が「信仰」と呼んでいたものは、宗教的な倫理に基づくものだということを理解しなくては、この言葉は理解できない。

 生者が死者の口を借りて歴史を語ることは危険だという。それは死者を利用していることに他ならないからだ。死者は何も語りはしない。この世にあるのは生者の言説だけだから。
 私はこの世に発声されることのなかった死者の言葉をいくつか知っている。発生し得なかった無念さも知っている。
 断っておくが、私は死者のために喋るのではない。私は私のために喋るのだ。
 死者の言葉を弄する人たちは、大同小異といい、生者の幸福のため、という。しかし、それは都合のいい嘘だ。
私は発されることのなかった声のために小異にこだわりたい。私は一生そこに拘泥し続けるだろう。私をニヒリストと称するものは、倫理を理解していない阿呆だ。

私は全ての命は守られなければいけないと信ずる。
我々は現存する生命に対して、否定するあらゆる権限もなければ、肯定する何の権限も有していない。「我々は生命から逃れられない」
かつて中野重治は、小説家は自分の作品が後世に残るようなことを考えるべきではなく、彼の作品なぞなくても平和に暮らせるような世の中が来るようにこそ努めるべきである、と言った。この言葉はいま私をいっそうの無力感に苛ませる。
私の運動は運動などなくても平和に暮らせるような世の中にするためにこそ行われたのではなかったか? 私は一体何人の命を救えたというのか? 私は憂鬱にならざるを得ない。おそらくこの憂鬱は、かつて幾人もの運動する者を心療内科に通わせたに違いない。

私は、私の心の慰みのために、と死者の口腔を借りて巧妙な出鱈目を並べる人々を知っている。彼らは親切かもしれない。しかし、それは最も倫理とは離れた場所にあるのだ。

私が倫理を口にするとき、そこには様々の不純物が-暴力が、偏見が、傲慢が-混じり合う。私はそのことを知っている。おそらく、そこは決して避けては通れない道なのだろう。だから、慎重に、それを渡っていくのだ。その繊細さは言論を弄する人間のマナーである。「マナー」とは、戒律という意味だ。

子殺しの寓話に100年の孤独を感じている暇は今の私にはない。
必要なのはもっと具体的な言葉で語り、彼を守ることではないのか。
「過ぎた」ことなどありはしない。「過ぎた」と思う人は一生石地蔵を背負っている。


     黒川梓   もう名乗られることのない名前…Glass
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by ecrits | 2008-03-03 18:27 | 思想