Samuel02226君へ

 Samuel02226くん、お返事が大変遅くなりました。申し訳ありません。
 ご質問の件に関してお答えさせて頂きたいと思います。

 先日の憲法9条をまもる愛媛県民の会ではお世話になりました。また、大変お疲れ様でございました。私とは初対面だったにもかかわらず、君が積極的に発言してくれたおかげで、周囲の学生達も大変触発された様子で、様々な意見の飛び交う、良い勉強会になったのではないかと思います。重ねて御礼を申し上げます。

 さて、ご質問の内容に関してですが、護憲の姿勢を「建前の理念でやればいい」ということに反対する、というものでしたね。

 まず、最初に申し上げておきたいのは、私は「建前の理念が重要だ」とは言いましたが、とにかくその一点張りでゴリ押しすればいいとは思っていません。それでは、旧左翼の人たちがやっていたことと何も変わりがありません。それは極めて素朴な意味で全く駄目だと思います。
 私はGHQが戦争放棄を謳った九条を「押し付け」たのは失敗だったとかなんだとか、そういう議論には一切興味がありません。また、それはほとんど無意味に近いものだと思います。重要なのは、この条文が、武力保持をネグレクトするために非常に有効である、というところだと思います。
 抽象論ばかりになるようですが、何人もいかなる理由であれ他者を傷つけてはならない、これが理想です。「非戦」はそのために統制的理念(カント)として働くでしょう。本当は無抵抗主義が最も良い方策だと思います。殴られたこと自体をネグレクトするのですから、殴った方にとってこれ以上効果のある反撃はないでしょう。しかし、現実的な問題として、それでは上手くいかない。
 私は、無抵抗主義のポーズをとりながら、九条を国連声明に盛り込むことが現状で為し得る最良の方法だと思っています。だから、建前の理念が大事だ、と言ったのです。もちろん、現在の国連機構に満足してはいません。多々問題があることは知っています。それに、例えば北朝鮮のような国が国連約定を無視してミサイル実験をしないとも限りません。
 しかしながら、そこに建前の力が働くのだと思います。実際、北朝鮮の例を取れば、あれは極めて幼稚な脅しに過ぎないわけで、自国の醜態をさらすようなものです。経済制裁を含めた様々な圧力であの程度の、謂わばチンピラの脅しすかしに似た「暴力」はなだめてしまえるでしょう。
 繰り返しますが、私は九条は建前であっていいと考えています。建前を軽んずる人は、建前がいかに足枷となって身動きが取れなくなるかを理解していないのです。建前は理想的であるからこそ意味があるのです。そこで矮小なホンネに開き直って、ミサイル発射基地への直撃空爆なら自衛の範囲内だとか言ってもしかたがない。相手の醜態に醜態で返事するようなものです。

 私は理論は現実に試されなければ意味がないと思います。
 我々が出来ることは口先だけではありません。
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# by ecrits | 2006-07-20 02:23 | 質疑応答

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 7月8日土曜日、午後1時30分から、松山大学820番教室にて、私も参加している「憲法9条をまもる愛媛県民の会」が主催する講演会があります。講師に、鶴見俊輔氏をお招きする予定です。私も参加します。
 講演会の後、若手が集まって勉強会をやります。私もうろ覚えのことを偉そうにしゃべる予定です。

 皆様ふるってご参加ください。
 鶴見さんの顔を見に来るだけでも価値があるでしょう。
 そうして、ちょこっと護憲のことを考えてみてください。

 昔(有事法制関連法案審議のとき)、浅田彰が今のような時代だからこそ、まっとうな右翼は護憲派に回るべきだ、と言ったことがあります。この言葉が現在ほどヴィヴィッドに響くことはないでしょう。
 私がやっていたECRITSもそうですが、二枚舌、三枚舌の「理念」が必要な時代だからこそ、民族派の人も、私のような活動家崩れの連中も、いっしょになって考えることが必要なのです。「憲法9条をまもる愛媛県民の会」は、そういうtranceな場所でありたいと考えています。
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# by ecrits | 2006-07-07 01:10 | 身辺のこと

近藤芳美の死

 学生時代に秋葉四郎氏に連れられてNHK歌壇の収録に立ち会ったことがある。
 そのときのゲストが近藤氏と岡井隆氏だった。
 甚だ失礼ながら、生きた化石を見たような気分だった。両名とも、私の中には教科書の中の人物だったからだ。温厚な人だったような印象がある。

 その時私は、後に歌人となった宝槻絵里子と一緒だった。
 私が宝槻に「シーラカンスがいるぞ」と言ったら、宝槻、静かに首肯していた。

 収録後、私が『二松短歌』に収録されていた、「□□□□□ □□□□□□□ □□□□□ □□□□□□□ □□□□□□□」という抽象短歌を褒めると(ケージで文字を構成し、音読の部分を読者の意に即して変化させる)、近藤氏、苦虫を噛み潰したような顔をされていた。おそらく私は、あそこで氏の怒りを買ってしまったらしい。
 当時、言語の問題を考えていた私は、狭義の日本語から離脱して思考することの重要性を直視していた。だから、短歌なんていうものを小馬鹿にしていた節があったのかもしれない。箱庭的「日本語」(ラーメンズ的に言えば「ニポンゴ」か)の形式を捨て去ることのできない「短歌」はどうしようもない。そう、思っていた。
 今になって思えば、短歌など、どこの国にもある。
 文化の固有性を強調しすぎるからおかしくなる。それだけのことだ。


 戦争を文字に残していった世代の人間が、また一人、いなくなってしまった。
 先日亡くなった岩城氏とともに時代のタームが過ぎてゆくのを感じる。
 甚だ、さみしい。
 それが今の私の素直な感情だ。


 「50年ついに国是とし戦わず人間の歴史に静かに思え」-近藤芳美
 戦わなかった訳ではない。
 「戦わない」と意地になって言い続けることが大切なのだ。

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# by ecrits | 2006-06-24 05:50 | 点鬼簿

岩城宏之の死

 私は岩城さんに直接面会した経験はない。
 東京にいた時分に、N響にいた友人にチケットを頂いて、数度足を運ばせたことのあるだけだ。精力的な人だな、とお見受けした。おそらくは、晩年の一夜にしてベートーヴェン全交響曲を演奏するという大仕事に至るまで、それは変わっていなかったのだろう。

 よく、淀川長治をして、日本における映画批評の第一人者とする評価がある。
 私は、その評価方法は間違っていないと思う。
 その意味で岩城さんは実演者として、或いは「初演魔」と称されたコンダクターの意地をみても、音楽批評の第一人者だったのではなかろうか。

 正直に言うと、私は氏の仕事にさほど敬服した覚えはない。
 しかし、何か時代が一つ終わったな、という感慨は深いものがある。
 それは、ひとつのタームとなるだろう。

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# by ecrits | 2006-06-14 04:27 | 点鬼簿

『ALICE』/ラーメンズ

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 「mixi」にこう書いた。

  ④商業的成功の回避
 例えば『後藤を待ちながら』で私が究極的に失敗だと思うのは、それが『ゴドー』のようにいずれ全世界に散種され、世界中の劇場や、あげくのはてには吉本興業的マンザイまでが、それを模倣することを、することの可能性を、この作品ははじめからあきらめている-いや、というよりは、むしろあきらめることによって成立している-ことだ。彼らの作品にしばしば見受けられるこの回避は、結果的に彼らの作品をオタク的自閉に閉じ込めてしまっている(おそらくは、その状態は彼らが最も望まなかった状況のはずだ)。模倣が悪いのではない。模倣でしかない、という諦念が貧しいのだ。
 彼らが半ば意識的に行うこの回避は、彼らの致命点である。小規模な商業的成功(精巧)は、むしろ松本人志以前への退行だろう。

 もう、これで尽きていると思うから、これ以上書かない。

 ただ、“USJ”=“United State Of Japan”は恐れ入った。
 このブログは批評でやる主旨できているから、正直に言う。
 あれだけでも価値があると思う。

 本当に良い芸術というものは、一般の客にも、インテリ向けにもちゃんと楽しめるようにエンターテインされているものだ。
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# by ecrits | 2006-06-03 04:41 | 批評

批評にとって作者とは何を意味するか ~differend6氏への応答~

 以前、このexiteブログでお世話になっていたdifferend6氏のブログ(politique de la Représentation )にて興味深いご指摘を頂いた。それは「作者」をめぐる諸問題である。したがって、この論点は爾来飽きるほど繰り返されてきた「作品」と「作者」の関わり(つまりはテクスト論的読み)の域を出ないかもしれない。しかしながら、ここでは「批評」のスタイルを巡って一つの到達点があるように思われる。で、あるから、私は少しばかり自分の姿勢をはっきりとさせておく。おそらくそのことは私の指標を表明することでもあろうから。
 断っておくが、differend6氏の映画批評はそれ自体立派に完成されたものであり、わたしが口を挟むべきようなものではない。私は年少の氏に敬意を表している。

 氏は同ブログにおいて、槇原敬之の『雷が鳴る前に』を歌詞から表層分析し、そこから「距離」「願掛け」「自然」というキイワードを取り出し、「雷」との関連性を分析している。
 私がこの曲を知ったのはおそらくは中学生の時分だったと記憶するが、雷が鳴ることと電話で話すことの間にある「ズレ」-つまりは、ほぼオンタイムで話者間をつなぐ電話によるコミュニケーションと、若干の時差を伴う雷(それは二人の微妙な距離を暗示している)の存在がこの状況では重複している-をなんとなく直感していた。それゆえに、バブル末期を象徴するようなこの種の彼の作品群の“凝りよう”に当時は耽溺していた。
 余談になるが、「雷の中で公衆電話から恋人に電話する」という状況はラッセルのパラドクスに酷似している。

 私は氏に言う。
 この「ズレ」は彼が実際にはゲイであったこととパラレルだ、と。
 聴き手が異性間の恋愛を想定しているにもかかわらず、現実的に彼が夢想していたのは同性間の恋愛であった。無論、作品の内容が事実であったかどうかは問題ではない。槇原敬之の面白さは、常にこの種の「ズレ」を孕んでいることであり、聴き手が(まさに表層の)作者を捉えようとすると、その瞬間に作者は別の地点に移動しているという捉えどころのなさなのだ。
 このことは恋愛に限らない。一々例証をあげることはしないが、彼が逮捕後に帰るべき場所(「Home」)と言っていたのは現実的に大阪ではなく、どこにもない場所であり、恒久平和の夢想に他ならない。
 この点は彼の作品の面白みであるが、と同時に、彼の作品を何か「後味の悪いもの」にしてしまっている。彼が妄想や禅にしか依拠できないのは致命的である。だからこそ、彼の作品はその魅力を語ると同時に彼のどうしようもなさを語らざるを得ない。その意味で、私は「極めて単純な意味で彼は下らない」と言った。

 氏はこれに反論している。
 氏は、作品に触れる時「そこに作者の影を見てしまうのは実際テクスト論でもなんでもなく、ただあのルネサンス以降執拗に繰り返されてきた啓蒙の図式に他ならないと、肌で感じてい」る。そして、「「槇原敬之の性的指向」といったような、それこそ伝記的事実と作品を練り合わせる行為は、槇原自身に関心があるならば勿論必要なプロセスに違いないのでしょうが(それは作品に対してはindex的な役割を果たすように思えます)、しかし作品それ自体と対峙するにあたっては何の意味もない」という。
 氏は個人的に「かなり前から、作品に作者の影、若しくは作者自身を見る批評方法にひどく違和感を覚えていた。というよりは、退屈に感じていた」と言っているのだから、この主旨は充分に理解できるものだ。皮膚感覚、と言うものだろうか。

 率直に言って、私は「啓蒙の図式」も「テクスト論」も「作者論」も全て同様に退屈だ。
 繰り返すが、私は槇原敬之を単純に下らないと思っている。本来ならば、批評で口を出すようなものではない。つまり、論外。
 私が面白みを見出したものは『雷が鳴る前に』のテクストではない。そこにあるズレなのだ。作者がある、ということ。そして、作者がズレを抱えながら転進したということ。そのことは作者論とは何の関係もない。

 私は、厳密には批評に方法などないと思っている。
 好きなように読めばいい。
 問題なのは、そこに批評としての可能性をいかに見出せるかということだ。
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# by ecrits | 2006-05-22 04:41 | 質疑応答

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅲ)


 ※諸事情により連載が長期間滞りましたことを先ずは深くお詫び申し上げます。   管理人



 以上、『GB』や『大ガラス』本体との一通りの照合作業によって、私たちの仮説が、ある程度的を射ていることが証明できたように思われる。しかし最後に、いまだ検証が行われていない重要な概念がある。それは、この『GB』の物語を動かす原因であり、また目的でもある「欲望」のことである。『大ガラス』において、欲望の占める位置とは何であろうか。
 よって以下の節において、この欲望の解読を試みることにする。
 以下の節が、本論の主旨からいささか逸れていることを了承されたい。


 『大ガラス』での欲望の性質は、『GB』の物語の内容、もしくはその物語に登場するのが、「花嫁」と独身の男たちであることを顧慮すると、性的なものであることは先ず疑いを入れない。しかしながら、ここで「性欲」を日常的な意味で受け取ってはならない。と、いうのも、独身者機械はともかく「花嫁」の性欲の衝動は独身者達による裸体化と平行して起きているからである。つまり「花嫁」の性欲は、最初は対象性の希薄な、内的な動機によって発生するものであると考えなければならない。では、性欲の想起の原因とは一体何か。

 ラカンは欲望の運動を差異化と位置付けた。 この構造化する運動は、知覚を差異化して知覚シニフィアンとし(一次微分)、さらに知覚シニフィアン相互を差異化して言語シニフィアンを生み出した(二次微分)。さらにこの運動はシーニュを生み出し(三次微分)、シーニュを差異化して意味の次元を現出させることになった(四次微分)。
 -そして、ここが最も重要であるのだが-さらに意味は身体の快感領域によって差異化され、ラカンのいう享楽になる。
 「照明用ガス」や、鏡の反射などの概念と知覚シニフィアンなどとの厳密な因果性についての考察は、さしあたっては必要ない。むしろ、注意を払わなければならないのは、意味が身体の快感領域によって差異化され、それが享楽になることである。フロイトの指摘にあるように、幼児の性欲は、成人のそれ(性器欲)とは異なり、口唇や肛門などの諸器官と結びつくもの(部分性欲)である。また、乳児が自らの糞便(肛門によって排泄されるもの)を乳房(口唇を通して栄養を与えるもの)や母の胎内に投入し、そのことによって自分が世界そのものになってしまう過程を、メラニー・クラインは「投射による同一化」と呼んだ。この投射による同一化が働いている間、子供は自分や対象の各部分を用いて、対象の属性を統御している。子供は、身体のばらばらの各部分とだけ関係を持ち、それをどのように繋ぎ合わせてみても、「人間」にはならないのである。
 この身体の不安定な状態を脱するのに不可欠なのが鏡であり、そこに映し出された自己の統一体である。ラカンが鏡像段階と名付けたこの期間において、子供は自己の統一像を“視覚”によって先取りし、自己の同一性に歓喜する。
 『大ガラス』における「花嫁」は、もとの三次元連続体の身体を、ガラスという二次元の連続体によって切断されていた。つまり『大ガラス』上の「花嫁」は、寸断された身体の一部でしかないのである。さらに厳密には、この寸断された身体は、それを無限に積層したとしても三次元の連続体にはならない。「厚み(高さ)」の概念が存在していないのが二次元空間だからである。
 この無限の切断による部分の身体から、その積層への不可逆性が問題であり、ここにおいて、この部分性欲及び鏡像段階と「花嫁」の性欲の在りどころとの関係が明白となる。
 つまり「花嫁」は、二次元の連続体である支持体の切断により、二次元の物体である独身者機械の性欲を部分的に感知することが可能であったが、しかし、まさにそれが原因となって、自己の統一像を捉えられない不安定な状態にあった(ばらばらの身体であってみれば、それをどのように組み合わせても人間にはならない)。しかし、「照明用ガス」の打ち上げの時に使用される「眼科医の証人」の鏡によって、「花嫁」は視覚的な自身の統一体を見出すにいたるのである。「花嫁」の快楽とは、したがって自己同一性の獲得による歓喜の別称であると考えられるのである。
 しかし、この鏡像段階が主体に与える悦楽と満足感は、決して長続きはしない。なぜならば、それは鏡の中の自己と、それを見ている主体とを切り離すことを要求するからである。主体は、突き放された形でしか自らを同定し得ないという疎外感を必然的に受ける(『ただ空しく、欲望に火照った花嫁の裸体だけが、処女のまま残る…』)のである。
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# by ecrits | 2006-05-15 04:13 | 論考

記憶を、手繰(たぐ)る。




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# by ecrits | 2006-04-03 04:36 | そのほかのこと

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅱ)

 ここまでの文章によって、一連の『大ガラス』の解読は一応の区切りがついた。よって、ここから先は、今までの主張の整合性の証明を、その根拠を、『大ガラス』の図像や『グリーンボックス(GB)』に求めることによって確認するものである。まず、『照明用ガス』の運動に沿って、解釈を施すことにする。

 “「九つの雄の鋳型」の(中略)ガスは、(中略)頭頂部につながっている毛細管を通り抜けている間に、硬い針のような固体に変わる”   (GB:以下“”内は同様)
          ↓
 注目すべきは、ガスが固体に変質することである。一種、希薄な印象を与えるガスから、極めて物質的な固体へと変化するのである。これは、独身者機械が自らを三次元連続体と偽る行為と解釈できる。

 “固体化したガスは(中略)管の出口で解放され、空気よりも軽い切片の霧のような状態に変わり、上昇しようとする(後略)”
          ↓
 しかし、固体への擬態-言い換えれば、三次元の物体への変化-は失敗に終わる。私たちの考察によれば、この原因は遠近法にあると思われる。そのため、次に独身者機械が目論むのは、もともとの姿である三次元の連続体の「花嫁」とではなく、二次元の連続体として切断された、部分としての「花嫁」との合体である。したがって、ガスは、本来の二次元物体の姿に戻る(「空気よりも軽い切片」)のである。

 “(前略)漏斗に捉えられてしまう。(中略)七つの漏斗を通り抜けている間に、ガスは方向感覚を喪失し、それとともに状態を変える”
          ↓
 先に示した通り、七つある漏斗は、右のものほど茶色に変色している。そして不透明になったガラスが、独身者機械を二次元に固定する役割りを果たすことにより、ガスは二次元の物体への変化を完了する。それにともなって三次元の「高さ」の概念が喪失するわけである(「方向感覚を喪失し」)。

 “(前略)ガスは、なおも上昇しようとし、今度は眼科医の表を通り抜ける間に、眩暈を起こす。そして鏡の反射によって(中略)花嫁の領域に達する”
          ↓
 『GB』においては「花嫁」への接近を果たすが、「照明用ガス」を「花嫁」の領域まで打ち上げる機構であるはずの「ボクシングの試合」が、『大ガラス』では製作されないままで終わる。私たちの考察では、この未完成の結果は、デュシャンの意図的なものであると思われる。と、いうのも、「花嫁」と独身者機械は、帰属している次元が決定的に異なっており、そのため、視覚的なメカニズムによる発射(「眼科医」「鏡の反射によって」)の失敗は、必然的であるからである-二次元の存在者が、三次元の連続体の【形状】を確定できないことの視覚的含意に留意されたい-。ガスの起こす眩暈は、その鏡によって同一性を獲得するであろう「花嫁」の全体像-独身者機械は決して見ることのできない-を想像したときの、独身者機械の動揺の結果であると解釈できる(この意味は後述される)。

 “(前略)九つの射点と呼ばれ、下手な射撃のように、九つの穴がバラバラに散っている”
          ↓
 「九つの射点」は「花嫁」の領域に穿たれている。これは、ガラスの面に対して垂直に運動するものの存在が示唆されている。したがって、この射点はガラスの前後に存在している「花嫁」の、三次元的展開を示す根拠となっている。

 “一方、独身者達による裸体化と平行して、花嫁の領域では、「欲望する花嫁が自発的に想像した裸体化」(中略)が起こる。(中略)こうして、花嫁と独身者達の両者の欲望によって、花嫁は裸にされ、開花を遂げるわけだが、それにもかかわらず両者の真の出会いと結合は果たされない。”
          ↓
 『大ガラス』においてのキーワードの一つである「裸体」が登場している。裸体とは、二次元の連続体である「照明用ガス」が辛うじて「花嫁」の領域に達した、そのコントラストとして明確になった「花嫁」の、二次元の存在者には認識不可能な三次元の展開部分のことを指している。よって、「花嫁」を裸にすることで、逆説的に「両者の真の出会いと結合は果たされない」のである。その結果として、独身者機械の欲望は出口を失い、「チョコレート摩砕器」を回転させるにとどまる(『GB』には「緩慢な性」「堂々巡り」「オナニズム」等々の記述がある)。
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# by ecrits | 2006-03-22 05:17 | 論考

謝罪広告

 自身のホームページを持たない私は、この場をお借りして、皆様にお詫びを申し上げます。
 このブログは前「思想工房ECRITS」の関係者の皆様もご覧になっていることと思います。その方たちに向けて、初代代表者として、一言、お詫びを申し上げたい。

 過ぎる3月4日、思想工房ECRITSの第五期メンバーであり、解散直前まで営業・広報を担当していた、亀山泰州(20)氏が都内で短銃を所持していたとして銃刀法違反で逮捕されました。私は、そのことを4日深夜に電話で報告を受けました。事件については、大変遺憾に思っています。銃の入手経路については本人が警察当局に供述している様子ですが、思想工房ECRITSとしても、捜査に最大限の協力を惜しまないつもりであります。また、亀山の贖罪についても、本人に反省をうながし、今後二度とこのようなことが起こらないように、団体として教唆するつもりです。

 私は亀山と二度、面識があります。
 一度は彼が加入するとき。二度目は昨年行われた直島のシンポジウムのときです。
 私は、個人的に-また、或いは団体として-彼に銃を所持するように直言したことは一度もありません。銃刀法違反は、単純な犯罪であり、許されるものではないと考えております。それだけは、声を大にして申し上げておきたい。
 「思想工房ECRITS」は(関係者の皆様ならご存知でしょうが)徹底した非暴力主義を掲げておりました。これは、私が団体を創設した折に絶対を期した約束の一つです。ですから、運動として暴力行為に出たことは一度としてありません。むしろ、右翼団体の名の下にヤクザに襲撃を受けたときも、その法的処置や事後的なことまで全て含めて警察にお任せいたしました。一部で言われておりました「報復」など決してない。我々は彼らに喧嘩を売るほど阿呆ではありません。そのようなメンツにこだわることこそ下らない。そう、考えておりました。

 ただ、私は皆様にお詫びを申し上げなければいけません。
 これは、個人の犯罪であると同時に、我々の責任でもある。

 私(黒川)は、代表職を務めておりました三年間で、護身のために、改造モデルガンを所持していたことがあります。事実として、そのこと皆に公言していました。当時は未だ法改正の手続きが行われる以前で、モデルガンの改造及び所持は法に抵触するものではありませんでした。
 私は三年間で幾度となく待ち伏せをされての暴行を受けました。犯人は捕まっていません。しかし、私は犯人に心当たりはある。そのたびごとに違う人間です。しかし、証拠はありません。あくまで推測の域を出ない。暴行については、安倍や尾上や冷泉も同じです。仄聞した限りでは、命に関わるような酷い暴行を受けたものまである。わたしは、それらの状況を受けて改造銃を所持していたのです。ただし、“いかなる場合も発砲してはいけない”という条件付きです。私は、それを嘘のない事実として申し上げます。

 私が代表職を退いて後、襲撃を受けたり、暴行事件があったようなことは聞いておりません。ですから、あの悪しき慣習は雲散したものと決め込んでおりました。
 私は、今回の事件とそのことが直接関係のある問題であったかどうかは知りません。また、本人に事実確認をしておりませんので、現在のところ分からない、というのが適当かと思います。ただ、一昨年改造モデルガンについての所持規制が為された折に、もし、個人的に所持しているようなものがあるのならば、それらを完全に破棄するように念をおして指示致しました。今は捜査の状況を見守りながら、本人に事実関係を確認することが急務と思っております。

 今回の事件において「思想工房ECRITS」が何ら関係のないものとは断言できません。
 よって、私には皆様に謝罪する責務がある。それが当然と思っております。
 「思想工房ECRITS」は現時点において解散しており、団体として機能しておりません。
 私は当節の関係者の一人としてこの事件に関わっております。

 この場をお借りして、皆様に多大なご迷惑をお掛けいたしましたことを謹んでお詫び申し上げます。     2006年3月7日 思想工房ECRITS初代代表 黒川寛之
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# by ecrits | 2006-03-07 06:00 | そのほかのこと