しらかたみおへの手紙

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 親愛なるしらかたみお君へ。

 君が新風舎の第11回えほんコンテストで金賞を受賞した『まてまて!きつねのおめん』がこのたび君の二作目の著作として出版の日を迎えることになった。いや、実際には、そのことを僕は伝聞した。元来のものぐさな性格だから、僕は君にお祝いの言葉一つかけるにしても、相当の時間を要してしまった。どうやら、もう熱は冷めてしまっていたらしい。周囲は何食わぬ顔で俺を見た。俺は粛々とした顔だったかもしれないが、雑誌やTVですでに公然の事実だった君の大作の刊行に、どうやらまた俺は乗り遅れてしまったらしい。われながら間の悪いことだと思う。甘えた顔で“スンマセン”もないものだが、十年前からこれだけは変わっていない。悪癖だと思う。
 もう十年になるのかな。たしか、君と僕とは従兄弟だった。あれはまた、何でそんなことになったのか皆目見当が付かないが、当時中学生だった僕たちは、真顔でクラスメイトにそう言って回った。本当に信じている友人もいたらしい。惚れた女を自らに引き付けて誇大妄想するのが当時の二番目の悪癖で、これはしばらくたって完治した。自分の情けなさに気が付いたからだ。気が付いていなければ、今でも同じことをやっていただろうと思う。恐ろしくて身震いがするが。
 人生とは面白いものだ-こんなことをしたり顔して言えるほど、僕も君ももう大人になってしまった-。田舎の中学生だった二人のうちの一人は、そのままに自己の才能(あるいは「卓越した修練の下に」とでも記そうか)を開花させ、だらしのないほうの一人は、どこでどうしてそうなったのか、左翼の活動家とかいったトンデモナイ肩書きをくっつけられて批評で口を糊する役回りを与えられている。たしかにあの時君と僕とは友人だった。今でも友人にかわりはないが、あの時とは趣きも若干変化しているようだ。僕はそのことの事実を今厳粛に受け止めている。
 しらかたみお君。これは僕の君へ送る手紙だ。もう、あの時書いたような手紙は二度と書けないかもしれない。しかし、偽らざるものを残しておく。それだけは信じておいてほしい。

 中東を民主化するという噴飯ものの大義名分の名の下に始めた馬鹿な戦争に日本が加担し、テレビゲームのようにスカットミサイルが飛び出して、命中するのをテレビの画面越しに眺めていたとき、僕は君に出会っていたことになる。今になって思うと、どうもそのような政治的な背景と君との印象がぴったりと符牒しない。おそらく、僕は(そしておそらくは君も)極めて鈍感だったのだろう。僕は目の前で起こっている戦争を知らなかった。僕が知っていたのは電気グルーヴという古今未曾有の狂人が飛び出してきて、テクノという試みを始めたことだけだった。そう、まさに「始めた」。テクノはあったかもしれない。しかし、大文字の「TECHNO」は彼らによってはじめて「テクノ」になった。マルクスは哲学とは既存の言葉の意味を塗り替えることだ、と言っている。その意味では僕の中にテクノという哲学が芽吹いていたのが当時だったと記憶している。『Selected Ambient Works 』を1000回聴いた。第1回(だったと記憶する)フジロックでリチャードを見て卒倒した。今はなき地元のクラヴに通いつめた。全てが新鮮だったが、僕はその感覚を忘れていない。「批評」といい「思想」という。難解な顔をする。しかし、そのときの“Trance”の感覚がないものは,はじめから死んでいるも同じことだ。批評はそのような場所以外で生成されるはずがないから。
 君は筋肉少女帯を聴いていた。こう書いてみると、やはり懐かしい感じがする。僕はサブカルチャーを意図的に無視し続けてきたが(少なくともものを書くレヴェルでは)、当時のナゴムカンパニーがある種の特別な熱意を持っていたことは素直に体験として認めざるを得ない。もちろん、それが良いか悪いかは別として。90年代初頭には、ハイカルチャーまたはローカルチャーという識別がまだ可能で、それが構造的に対概念を為していた。よって、ローカルチャーによる企図的な逆視をもってハイカルチャーを批判することが可能だった。現在の状況を考えてみれば、これは驚くほかのない状態だ。現状分析のようなことばかり言ってても始まらない。そんなことはヒマな連中に任せておくことにしよう。
 僕は覚えている。当時大槻モヨコ名義で出されたプレスのいくつかを君と聴いたことを。いや、しかし、それも僕の記憶違いかもしれない。その後二人は別々に歩み出して、結局僕はドラッグやら何やらでずいぶん頭を悪くした。満足に覚えていることなど、何一つない。断っておくが、これは感傷ではない。現実的な障害だ。

 考えてみれば、君と僕とが東京で生活していた時期も重なっている。重なっているはずだ。僕は時折、それは本当に時折だが、君のことを思い出していた。某月刊文芸誌の創刊パーティーでしまおまほちゃんと話していたとき、僕は彼女に君の印象を感じていた。発話のタイミングや、そのトーンを。困ったことに、友人の癖は何かにつけて記憶を突き始めてしまう。連絡の一つも取ればよかったのだろう。知人から君が頑張っているらしいことを聞いただけで、それで僕は満足してしまっていた。その頃の僕は文学と差別とセクシュアリティの問題を抱えていた。原稿の依頼もボツボツ来始めた。何とかやっていけるような気もしていた。

 結果論になるが、君も僕も、こうして松山に帰ってきた。僕はいま、言論とは何の関係もない仕事を主にしている。君はいつの間にか絵本作家になっていた。あの頃に抱えていた問題は、ほとんど何も解決していない。ただ、現実的に弊害は発生し、被害者は増え続けている-宗教・人種・戦争・ジェンダー・人口・性暴力・エイズetc-。それら現実に向き合い行動することを自分は今の課題だと思っている。問題に最終的な解決などない。「最終的」な解決はイデオローグでしかないからだ。“困難な現実がある”。現実とはただそれだけのことだ。何の神秘的な要素もない。この世界に究極的な「意味」があるように思っている連中は形而上学を復興させているに過ぎない。思想的には、それはカント以前への退行を意味している。暴力も性も、君や僕の本当に身近にある問題だから。
 馬鹿に自分のことばかり書き過ぎた。これでは祝辞にもなにもなってやしない。申し訳ない。
 今の僕は前に書いたようなことを考えている。それは、もしかしたら今の君とは何の関係もないことかもしれない。君は「情緒あふれる」松山が好きだ、と言った。でも、それは間違っている。僕らの育った道後という街の情緒は、昭和以降に地方産業制を唱えた幾人かの官僚によって意図的に作られたものだから。道後温泉はそもそも地元の小規模な湯治場だった。まあ、いまの道後温泉の泉質を考えれば、そんなことは本当にどうでもよい問題かもしれない。あれはただの形骸だから。温泉じゃない。
 僕は君を心から応援する者の一人だ。ただし、君があの頃のように本質的に徹底的にラディカルに突き進む限りにおいて。あの頃のような君の姿が、昔もいまも僕を勇気付けていることを君に知っておいて欲しい。君の健康と更なる活躍を心より祈る。

     2006年2月23日 黒川寛之

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# by ecrits | 2006-02-23 05:55 | 友人

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹⅰ)

 その根拠として示されるものに、まず前述した図像の表現方法の差異が挙げられよう。三次元の連続体の切片として定義された「花嫁」とは異なり、独身者機械の領域における諸図像は、遠近法で-つまり擬似的な二次元の支持体上での三次元的な表現で-描かれ、また、その形状も「花嫁」と比較すると至って現実的であり整合的である。このことが意味するものは一体何か。
 遠近法はルネサンス期に理論化されたものであり、一般的な定義としては、三次元的奥行きを二次元の平面画に定着させるための方法、となっている。ここで重要なのは、描かれている“もの”そのものは、二次元の連続体であることである。この、「遠近法で書かれた図像が二次元の物体である」ことは、私たちの主張の観点との関係において、特別な意味を付与されることになる。それは「花嫁」との差異において。つまり、独身者機械の遠近法的な表現が示しているのは、「花嫁」と独身者機械が両者とも同一の二次元的な支持体上に描かれているにもかかわらず、その間に決定的な差異が存在し、なおかつその原因が、独身者機械の遠近法的表現それ自身にあることである。
 遠近法による表現と「花嫁」の切断的な表現の違いは、それが二次元の空間で完結しているか否かによる。先に述べた通り、独身者機械の表現は現実的である。なぜならば、それは三次元の物体の立体感や位置関係などを、忠実に支持体上に固着させているからである。しかし、事実として四次元の物体の展開を三次元の空間において確定させることは不可能である。しかしながら、遠近法は二次元の空間の範囲で、三次元的表現を固定する。つまり独身者機械は、それ自身で、そして自身の次元で既に完結しているものとなる。したがって、三次元の物体の二次元的表現であるはずの遠近法は、『大ガラス』においては、独身者機械が三次元的拡張の可能性の絶たれた決定的に二次元の連続体であることを逆説的に示しているのである。
 独身者機械の領域の構造の一つに「篩」(ふるい)がある。注目したいのは、その七つある「篩」が、図像向かって右方向のもの(つまり、「照明用ガス」の進行方向)ほど茶褐色に濁っていることである。我々の考証では、これは支持体上のガラスが曇る-透視が、つまりは、三次元への拡張が不可能になる-ことを、ひいては我々の主張の正当性を示していると思われる。

 ここにおいて、先に示した重要な問題定義であると思われる「花嫁」と独身者の思いが通じない理由、そしてそれを妨害するものの正体が説明可能になる。つまり、「花嫁」と独身者機械とは、所属している次元を異にしているのである。「花嫁」が三次元の連続体であるのに対し、独身者機械は(遠近法で偽装こそしているものの)二次元の連続体である。独身者機械の認識できる花嫁の姿は、「花嫁」本来の形状の無限に切断された一片に過ぎない。よって、独身者機械の欲望は「花嫁」に僅かな期待感を抱かせるのみで終わってしまうのである。
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# by ecrits | 2006-02-06 04:26 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅹ)

 このような、三次元の連続体の不可視性から導かれる無限の可能性に対しての二次元の世界の存在者の知覚の限界を示すことは、同時に三次元の空間に属している私たちが、原理上四次元(もしくはより高次元)の連続体を知覚することが不可能であることを明確に表すだろう。この文脈において、はじめて冒頭のデュシャンの発言を文字通りに受け取ることが可能になる。その意味で『大ガラス』は、不可視な異次元の連続体を単なる印象によって処理しようとしたキュビスムへのアンチテーゼとしても位置付けられるのである(実際、デュシャンが1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに『階段を降りる裸体』を出展したところ、アルベール・グレーズらキュビストによる抗議を受け、作品を撤回したことがある。キュビスト達の抗議の理由は明らかにされていないが、私たちの考察によれば、おそらくそれまでのキュビスムが前章で採り上げたように多角的な視点の統合処理-つまり、時間の主観による集約的把握-だったのに対し、デュシャンの作品は時間の単一な視点による処理であったことが原因であろう。また、デュシャンは『大ガラス』以後、芸術作品の制作を遺作を除いて放棄する)。

 では、『大ガラス』の下半分を占める独身者機械についてはどのような解釈が可能だろうか。
 独身者機械の領域の図像も「花嫁」と同じくガラス上に表現されている。しかし、にもかかわらず我々の考察によれば、独身者機械と「花嫁」との間には決定的な差異がある。

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   ↑マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》
     1912年 油彩、キャンバス 146×89
     (c)Succession Marcel Duchamp/ADAGP,
     Paris&JVACS,Tokyo,2004
     (c)Philadelphia Museum of Art:
     The Louise&Walter Arensbergcollection
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# by ecrits | 2006-02-02 05:01 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅸ)

 結論を先に示しておこう。我々の解釈によれば、その発言は次のように変形することが可能である-「三次元の物体の二次元への投射」と。
 この同型的な読み替えの正当性の根拠を示しておこう。まず最初に想起してもらいたいのは、『大ガラス』を構成している二つの部分-「花嫁」の領域と独身者機械の領域-における表現方法が異なっている点である。上部の「花嫁の領域」の中での表現方法は、前述したように、各図像を整合的な理解が不可能であるかのように形作っていた。しかし、我々の解読の射程においてこの図像の不整合性は妥当な根拠を持ちえている。n+1次元の連続体はn次元において、n次元の切片としてしかn次元の存在者には認識され得ないのであった。この点を考慮に入れるならば、ガラス上に写された「花嫁」は、ガラスという透明な、そのため、限りなく「厚み」を鑑賞者に認識させない支持体-つまり二次元の連続体としての支持体-によって切断された、切片の中の一つであると解釈できるのである。したがって、「花嫁」は三次元の連続体であり、ならば「花嫁」の領域の諸図像が、不可解な外観をなしているのは当然なのである。二次元空間で無限に-というのは、二次元は定義上「厚み」が存在しない空間であり、したがって、三次元の連続体の細分化は、無限に継続されなければならないから-切断された結果としての「花嫁」の部分(切断面)のみが『大ガラス』において表現されるにとどまっているのだから。
 この解釈のパースペクティヴにより、『大ガラス』の支持体がガラスでなければならない理由を説明することが可能になる。つまり、二次元に帰属する存在者が、三次元の連続体を二次元の空間内でのみ認識可能であるならば、三次元の連続体は二次元の存在者に対して、その切片の連続(もしくは変形)の無限の可能性を示すことになるだろう。そのためには、(原理的には)図像は、支持体上に固定されていてはならない。ただ、現実的な問題として、それは『大ガラス』が平面芸術であることからして不可能である。しかし、支持体にガラスを採用することにより、『大ガラス』の前方のみならず、その後方に対しても「花嫁」の本来の姿、つまり三次元的連続体としての姿を、不可視性という逆説から念頭に置くことが可能になったのである(現在、『大ガラス』はフィラデルフィア美術館に展示されており、ガラス越しに美術館の庭の噴水を望むような配置となっている。よって、「花嫁」と、その噴水とを三次元の空間において一体化して眺めることも可能である。しかし、その事は『大ガラス』の配置を僅かに変えるだけでも、ガラス越しの風景は変化してしまうことを意味している。そのため、鑑賞者は永久に「花嫁」の三次元的な展開の確定を行うことはできない。つまり、「花嫁」が本来三次元の連続体なのに対し、それが二次元の空間によって切断された形態においてしか知覚しえないため、鑑賞者が「花嫁」の本来の形状を無限に想像することが可能であるということ-だが一方で、それが「花嫁」の完全な姿が定義上不可視であることを示していること、これらの背反的な状態を、支持体としてのガラスは表現しているのである-)。布を張ったカンバスなどの他の支持体では、不透明なマチエール上に図像が固定されるため、このような三次元的展開は表現不可能なのである。
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# by ecrits | 2006-01-28 05:29 | 論考

逡巡

 “いかなるセクシュアリティも暴力性を抜きにして考えることができない”
          -フェミニズムもホモセクシュアリティもセックス自体だとしても-

 結局、私はたったこの一つの問いを巡る惑星の一つに過ぎなかった。
 そのことの厳粛な事実。
 ただ、それがある。
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# by ecrits | 2006-01-24 09:35 | そのほかのこと

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅷ)

 デュシャンの発言の中にあらわれた「投影」という言葉と照らし合わせてみれば、この次元空間の定義と『大ガラス』との関係が、従来とは異なる解読を試みるにあたって、重要なヒントを与えていることが分かる。ただし、注意しなければならないのは、前述したデュシャンの発言は、あくまで比喩として捉えなければならないということである。もし、その言葉通りに『大ガラス』を「四次元の物体の三次元への投影」として解釈するならば、『大ガラス』自体が三次元の物体でなければならなくなる。ところが、まさにその理由によって『大ガラス』の解読作業が、ある種の難問に直面してしまう。では、その難問とは何か。
 問題を少しずつ詳らかにしていきながら解説しよう。
 まず、確認しておきたいのは、現実において『大ガラス』が三次元空間に属する物体であること、それは確かに事実であるということだ。ガラス自体にも程度の差こそあれ「幅」が存在しているからである。言うまでもないが、「幅」が無ければそれは明らかに三次元の連続体ではない。しかし、その条件は何もガラスだけに限られたものではない。絵画などのいわゆる平面芸術として認知されている作品にしてみても、厳密な意味で平面(つまり二次元の連続体)であるものは皆無であり、たとえ支持体がカンバスであろうが、紙であろうが、また油絵具にしても、理念的には三次元の物体に他ならない。したがって、デュシャンの発言をそのまま受け取ってしまった場合、『大ガラス』が、ほかでもないガラスを支持体としている理由について説明する事が不可能になってしまうのである。
 とはいえ、デュシャンの発言の有効性は未だ薄れていないと思われる-前述したように、それを比喩として捉えるならば。-では、我々はその発言をどう読み替えるべきであろうか。ここで重要なのが、支持体としてのガラスの性質である。ガラスとカンバスの性質の異なる点としてまず挙げられるのは、ガラスが透明であり、カンバスは不透明であることだろう。では、透明な支持体が与える、カンバスでは表現し得ない効果とは何か。そしてその効果の解釈を足掛かりに、『大ガラス』の解読を試みるにあたって、先のデュシャンの発言はどのように読み替えうるのか。
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# by ecrits | 2006-01-16 04:30 | 論考

或る鋭敏な神経の風景 ~私の大切な友人へ~

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 高い天井から吊り下げられた、無数の細いワイヤー。
 そうして、その一つ一つに殺伐とした電燈が灯されている。
 しかも、よく見ると、その色は一通りではない。
 不安が、前近代的な「不安」が、我々の両眼を不確かなものにしようとする…。

 私は、この景色を見た瞬間に君の事を考えた。
 君の、繊細で、脆弱な精神を。
 どうか、君、この淡い光りをそのままに灯しておいてくれ。
 いつ、切れて、粉々に砕けてもおかしくない精神を、私は、支えてゆくことにする。


                  赤星いつか 様

   取材協力…“道後ぎやまんの庭” (松山市道後鷺谷町459-1)
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# by ecrits | 2006-01-13 19:38 | そのほかのこと

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅶ)

 『大ガラス』の本格的な解読作業を行う前に、『グリーンボックス(GB)』に収められたデュシャンのメモに目を通しておこう。この中でデュシャンは、「花嫁」と独身者たちの物語を書き記している。あらすじをまとめると、まず独身者たちは「花嫁」を誘惑しようと試みる。そして彼らの頭部から噴出した「照明用ガス」は漏斗(「篩」)を通過し、その後「眼科医」の鏡の反射によって、上部の「花嫁」の領域へと上昇し、彼女を裸体にしようともくろむ。一方「花嫁」は独身者たちによる裸体化と平行して、欲望の想像によっての自発的な裸体化を進める。そして「花嫁」は性腺の分泌液によって、そして独身者との性的快楽への欲望によって完全な裸体化を目指す。しかし、両者の出会いと交合は果たされないままで終わる。
 この奇妙な物語において明確な出来事の進行は、独身者と「花嫁」の欲望による出会いが果たされなかったことである。デュシャンはその理由については触れていない。それでは、何故それは実現し得なかったのか。『グリーンボックス(GB)』のメモは、奇妙ではあるものの、大まかに捉えれば、恋愛についての物語である。したがって、この問いは次のように変形できる-何故両者の思いは通じなかったのか。そして、それを妨害したものは何か、と。
 ここで思い出してもらいたいのが、この章の冒頭で触れたデュシャンの言葉である。それは「四次元の物体の三次元への投影」であるのだが、この言葉の意味する事を推察するには、次元に対する厳密な-つまり単なるイメージによって捉えるのではない-理解が、ある程度は必要と思われる。
 では、厳密な(ここではあえて「学問的な」としよう)意味における次元とは何か。それを明らかにするために、フランスの数学者ポアンカレによる定義を引用してみよう。

 もし、物理的連続体Cを、すべてが互いに他の要素と識別し得るような有限個の要素からなる切断によって分割できるならば、われわれはCを1次元の連続体と呼ぼう。もしCが、それ自身が連続体であるような切断でなければ分割されないのであれば、Cは多くの次元を有するという。もし、切断が1次元の連続体ならば充分だというときには、Cは2次元を有するという。2次元の切断で充分ならばCは3次元を有するという。以下、同様である。


 切断が3次元の連続体ならば、その物理的連続体は4次元を有する。そしてこれは5,6次元にも、そして、より高次元に対しても拡張可能である。また、裏を返せば、これはn次元の存在者はn+1次元の連続体を、あくまでn次元の空間内でしか認識し得ない、ということである。したがってn+1次元の連続体がn次元において認識可能である場合、その連続体はn次元内での切片として-つまりn次元の連続体として-のみ、n次元の存在者に認識される。例えば三次元の連続体が二次元の空間を通過する際、その連続体は二次元の存在者にとって、あくまで面の連続の-したがって連続体の形によっては、面の形状の連続的な変化の-投影としてのみ捉えられる。前章で、四次元が不可視であると述べたのは、この意味においてである。

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   ↑所謂、ポアンカレ断面図の一例。上図(a)は、準周期解についてのポアンカレ断面図。中緯度にカオス混合領域が存在し、 その両側に不変トーラスが閉じたループ状になっている。
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# by ecrits | 2006-01-07 07:12 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅵ)


   第2章 『大ガラス』

 『大ガラス』(正式名称は、「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」)は、1915年より制作が始まり、8年後の23年に未完のまま制作がとどめられたフランス(当時)の芸術家マルセル・デュシャンの作品である。最も大きな特徴は、図像がガラス上に描かれていることであり、そのため1926年11月に開催された近代芸術国際展の終了後の搬送中にひびが入ってしまい、以後はそのままの状態で展示されている。その理解不能な図像から、最も解釈の難解な芸術作品の一つとして今日でも広く認知されている作品でもある。
 デュシャン自身の語るところによれば、この作品におけるキーワードの一つは「四次元の物体の三次元への投影」である。これは一体どういうことであろうか。
 第2章では、極めて示唆的であり、重要であると思われるこの発言を軸に『大ガラス』の解読を試みるのだが、それにあたって、まずこの作品の大まかな輪郭を説明する事から始めよう。
 『大ガラス』は大きく分けて二つの部分によって構成されている。一つは上半分の花嫁の領域であり、残る一つは下半分の独身者機械の領域である。花嫁の領域は「花嫁/雌の溢死体」と「通気ピストン」、そして「九つの射点」からなり、独身者機械の構造は、作品に向かって左から「九つの雄の鋳型」「隣金属性の水車のある滑構」「ふるい」「チョコレート摩砕器」そして「眼科医の証人」となっている。そしてそれらは全てガラス上に描かれている。また、『大ガラス』は未完成品であり、初期の計画では描かれる予定だった「ボクシングの試合」や「重力の軽業師」が制作されないままで終わっている。
 ここで注意しなければならないのは、第一に、この二つの部分の基本的な図像の表現方法の差異についてである。つまり、下部の独身者機械は、ある固定された一つの視点からの状態、つまり遠近法の投影として描かれているのに対し、花嫁の領域は、一見すると何が描かれているのか分からない、不可解(=不可視)な表現が用いられていることである。そして第二に、これらが全てタイトル通りにガラス上に固定されていることである。
 しかし両者において、その形状の不可解性そのものの原因、そしてガラスの意味するものについての考察は今まで行われてこなかったように思われる。この『大ガラス』の数多の先行テクストにおいては、この「花嫁」の形状が「何を」示しているかについては大いに考察がなされてきた。例えば「花嫁」に内燃機関の外観を見出しているものも多い。しかし、私の考えでは実はこの種の解説は何の回答も提出してはいない。と、いうのも、これらの解説に従うならば、では何故「花嫁」のみが「独身者機械」の遠近法的なものとは異なった方法で表現されているかについて、そして、それらがなぜ他でもないガラス上に描かれているかについて、全く答えられないからである。つまり、『大ガラス』を解読するには、What(何が描かれているか)ではなく、How(どのように描かれているか)に対する解答が不可欠な条件であるはずである。しかし現実においては、通称にさえあらわれているにもかかわらず、このガラスというマチエールそのものが作品に付与する意味に関しての指摘が意外に少ないのである。せいぜい、独身者機械の表現に関して、その焦点がガラスを通過した作品の背後で結ばれることなどが指摘されているにとどまるのである。しかし、私たちの考えによれば、この問題はより深い、作品のコンセプトそのものに通ずるものである。したがって、私たちの考察はこれら二つの特徴を、ある一つの結果へと結びつけるものになるだろう。


   ※第2章の執筆、および改稿に関し、“ぴゅーぴる”君の丁寧なアドバイスと支援を頂いた。ここに深く感謝の意を表ずる。ありがとう!   えくり
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# by ecrits | 2006-01-02 04:24 | 論考

夜更けから~夜明けまで

 英語で「夜明け」をあらわす言葉「Dawn」は、「(物事が)分かり始める」という意味を併せもっています。日本語にも「黎明」という言葉がありますね。日の出は、一日の始まりであり、同時に、思考が始まる瞬間を意味しています。
 ただ、悲しいかな、我々はまだ夜の暗闇にいるといわねばならない。
 自衛軍は世界中に派遣されるでしょうし、性や民族を初めとする差別は未だ世界に蔓延している。地球の環境は壊滅的ですし、それに拮抗する倫理もない。

 本音に開き直っている余裕はありません。
 本音を語る人間は全く現実的ではありません。自らを物語化する欲動に酔っているだけのことです。こういう人間が美学的な効果をもつことが問題です。

 青臭い理想を胸を張って語ることが必要とされています。
 それは切実な問題です。それに気付いていない人が多過ぎる。

 私は年の終わりや、新しい年の到来に、全く何の関心もありません。好きな人は、好きなようにすれば良い。そう思っています。
 ただ、私にも何か新しい時代に向かっての祈りはある。
 いや、それは「祈り」といった神秘性を巻き込む「ことば」ではありません。
 私は常に現在的であり、行動しています。それを恥じる事はありません。そう思っています。

 2006年も倫理は漸進します。
 「夜明け」に向かって。
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# by ecrits | 2005-12-31 04:02 | そのほかのこと