神経症 ~清水覚君に~

 病気は、突然、向こうからやってくる。
 10代の私を一番よく知っている、或る女性と連絡をとり、神経が甚だ乱れる。
 自分の体でも、自分がコントロールできるのは、本当に一割にも満たないと感じる。こうしている今も、私の知らない所で小脳や脳幹が働いている。
 清水覚君、君が考えているのよりも全く下らないことで、僕は一喜一憂し、影響されるんだ。そのような現象を、僕は下らないとは思いながらも、否定したくはないし、また、すべきでもないと思っている。そのような意味では、果たして一体誰が論理的に「徹底」だったろうか。君は論理的であることの位相を根本的に取り違えている。
 それは全く批判ではない。


   「砂の上の、書きかけの楕円
          誰も皆、大きくなって、もう戻らない。」
   野中公美 様
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# by ecrits | 2005-12-26 01:44 | 質疑応答

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅴ)

 この難問を回避するには、自己の所属する空間の規定の根拠を自らに還元しないこと-言い換えれば、自己指示形式の構造そのものの構造(正当性)-を主体に帰属させないことが必要である。実は宗教は、この自己指示形式の構造の正当性を、その主体から引き離すことが可能な極めて巧みなシステムを自覚的にしろ、無自覚的にしろ採用している。それは、神の言葉を神自身でなくその代弁者に語らせるという教義の伝達システムのことである。例えばキリスト教では、神の言葉は、神ではなく神の子であるキリストによって伝達される。実際には、この構造においてもキリスト自身の中では、前述した自己言及のパラドクスは依然として影響を及ぼしている。しかし一般の信者達は、その難問をキリストに集約させることで、偽装ではあるにせよ、それから遠ざかることができるようになるのだ。つまり、神と人との原理的には果たされるはずがない意思の疎通を、間にキリストというグレーゾーンを挟むことで可能にするわけである(グレーゾーンとしての-つまり両義性を持ったキリストに関しては-芥川龍之介の『西方の人』において言及されている。さらに、拙著論文『芥川龍之介のキリスト~神学の構造に向かって~』 「ECRITS」臨時増刊号第9号(04年11月)に、さらなる論考が展開されている。また、自己指示形式の矛盾、その解決手段としての社会システムの問題に関しては、大澤真幸の『行為の代数学』に詳しい。その中で、大澤は折口信夫の「まれびと論」における「まれびと」の概念を、内部と外部という両義性をもつものとして、社会システムの解析に援用している。私たちの考えによれば、これはキリスト教でのキリストの果たす役割と酷似している)。
 しかし一方、キュビスムは、グレーゾーンの存在はおろか、精神と身体(宗教の世界に置き換えれば、神と人間)とが融合する空間として四次元(宗教では、神の世界)を想定している。したがって、この章の冒頭で述べたように、四次元を無限のものとしながら、なおかつそれを感覚によって認識しようとする矛盾が、不可避的にあらわれてきてしまうのである。
 つまり、キュビスムは次元の考察を感覚に頼ったために、不可視なものの印象による処理にとどまったわけである。そして、この「不可視のイメージによる処理」は、神秘主義において盛んであった(正確に言えば、現在においても、この種の思考停止としての神秘主義は少なからず存在している。そして実に、これこそが神秘主義の孕む最大の魅力であり、同時に最大の欠陥なのだ)。冒頭に挙げた文章は、ここにおいて解釈可能になる。つまりキュビスムにおける異次元は、古来からある“神秘”の別称に過ぎない。
 では、次章で扱う『大ガラス』作品における「次元」とは何か。初期の彼はキュビスム的な作品を制作していた(『階段を降りる裸体』など)。しかし、私たちの考察によれば、キュビスムと『大ガラス』の間には、決定的な差異があるように思われる。
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     ↑芥川龍之介 田端の自宅にて(大正14年8月頃)
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# by ecrits | 2005-12-23 03:38 | 論考

年末の一日

   友去りて チョコレート飲む 夕べかな
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     ※ 取材協力…“Le chocolatier C” (松山市東野2-10-21)
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# by ecrits | 2005-12-20 01:51 | 発句

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅳ)

 ウェーバーは精神・物質の二元構造を一元的に折り込んでいる。この一元化の思想をたどると、リンダ・D・ヘンダーソンの指摘によれば、神秘主義者のエドワード・カーペンターにそのルーツを求めることができるようだ。彼の著作『アダムの山からエレファンタまで』には、ヨガとの出会いをもとにした「宇宙意識」の記述が登場する。その「宇宙意識」とは、カーペンターによれば、「その中では自我は外界との対比、主体と客体の区別が消滅するような意識」のことである。この「宇宙意識」と、ウェーバーの四次元の定義とは極めて類似している。そしてこの精神・物質の統合によってウェーバーは「万物の莫大さ」の-つまり四次元の-そして無限の視覚化を試みるのである。しかし、繰り返せば、この発想は決定的な矛盾を露呈しているのである。よって、前述した私たちの問いは、次のように書き換えなければならないだろう-つまり、キュビスムにその矛盾を強いたものとは何か、と。
 神秘主義は、超越的なものの認識を目的としている。そして、私たちは一般的に超越的な性格を付与されているものを知っている。それは「神」である。
 大半の宗教では、神は超越性を持ち合わせているものとして定義されている。例えば、聖書の創世記を参照すると

 初めに神は天と地を創造された。(中略)そして神は光と闇との区分を設けられた。

 から始まり、続いて昼と夜との区分や、曜日の概念、そして動物や人間を文字通り創造してゆく過程が記されている。そしてそれは最終的に総体としての世界となる。
 ところがここで一つの問題が発生する。まず最初に世界を創造したのが神であるという事を事実としよう。するとその事実によって、神は私たち人間とは異なる「次元」に属しているものでなくてはならなくなる。実際、諸宗教において、神はあらゆる意味で(時間の概念に関しても)無限の存在であるとみなされている。しかし、ならば私たちは神の存在をどのようにして立証可能なのであろうか。つまり、神の超越性-そして、それによって保証される絶対的な自己同一性-を立証するのが(その超越性とは対照的に不完全な存在の)人間であるのならば、まさにその不完全な能力による認識の為に、神の超越性自体が疑わしいものになってしまうのである。逆に、神の超越性が立証可能ならば、人間は神と同格の思考様式を保有することになり、全てに優先するものとしての超越性を逆説的に神は剥奪される事になる。したがって人間は、どちらにしても自己同一性を獲得できない。この論理構造の混乱は、自己言及のパラドクスと同型である。つまり「私は嘘つきだ」とする言明が真ならば、それを述べている私は正直者になってしまい、仮にそうだとすると、「私は嘘つきだ」という言明は偽となり、やはり私は嘘つきになってしまう。しかしそうだとすると、言明は真である事になり…と、論理は循環し、永久に結論が出せなくなるのである。この問題はラッセルの提唱した「階型理論」によって一応の解決を見ることになった。簡潔に説明すると、それは言表内容の主語と言表行為の主語とを異なるものとして分けて考える方法のことである。したがって、ラッセルによれば自己指示的な言及は I think. ではなく It thinks in me. となる。しかしこの階型理論を突き詰めると、きわめて破滅的な独我論に直面してしまう。と、いうのも、この理論に従えば「自分について考える私」は私ではなくなり、それを考える私もまた、私ではなくなり…と、自我は延長のない点へと収縮してしまい、残るのはそれに対置されていた、実在だけになってしまうからである(厳密には、論理の視点を逆転させれば、私は「私の世界そのもの」になり、独我論は一切と無との間の振り子運動となる)。
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↑労働党の対ベトナム政策に反対し、党員票を破り捨てるラッセル。  1965年(89歳)
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# by ecrits | 2005-12-18 02:08 | 論考

冬来たりなば…

 12月14日、松山市県民文化会館にて開催されていた水谷修氏の講演会「冬来たりなば 春遠からじ」に赴く。来場者4200余人。昨今で県内最大のイヴェントだった。

 水谷氏、性善説を大いに説く。談論風発の印象あり。若き日の菊池寛、かくのごときと思った。
 「ことば」の持つ下らなさと偉大さの振幅を感じる点で、なかなか他人の及ぶ所ではない。何か、「ことば」を突き抜けて、普遍的なものに向かおうとするうごきがある。善悪を別として。

 演説の才能というのは、確かにある。個人の能力的なものだ。私も4000人を前に人命について語れ、と言われると、ああいう方法をとるかもしれない。困ったものだ。本当に困ったものだと思う。あれでは、どこぞの国の宰相と変わりがない。
 講演会の終わった後、教祖様の「お筆先」を求めて、ホールに人がごった返す。
 私は危機感を感じた。
 必要なのは「ことば」をもって「ことば」を断ち切る、不断の批評性ではなかったか。
 そのことだけが、思想から唯一ひとを自由にする方法なのだ。

 愛媛県のリストカッター、全国で二番目の数字と云う。
 「えひめ」という閉塞の歪み。こんなところにも発露した。
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# by ecrits | 2005-12-16 07:00 | そのほかのこと

女性器に飯を盛るということ ~遠藤裕人の砥部焼き~

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 12月6日、松山市の「ギャラリー リブ・アート」にて開催されていた遠藤裕人の個展に赴く。
 今日となっては、砥部焼きの現代陶芸作家としてすっかり定着してしまった感がある彼の存在だが、発言する芸術家としての一面があることはあまり知られていない。護憲派の理論家としての彼-しかしそれは決して党派性に還元される性質のものではなく、独自に“一市民の”発言者として立場を一貫させてきた。
 彼に最後に会ったのは、今年の夏、「憲法9条をまもる愛媛県民の会」だったと思うから、半年ぶりくらいの再会になる。連日、右翼の街宣車が喧しく往還していて、会場周辺の住民の皆様には甚だ迷惑をかけた事だったろうと思う。が、それにもめげず、松山という閉塞した土地で、今や耳新しくさえ聞こえる、“まっとうな護憲論”には多くの賛同を頂いたし(実際、それは蓋を開けてみてビックリというほどの反応だった)、今後もそれは発展しながらさらに大きな運動として展開されてゆくだろう。私はそれを心強く思っている人間の一人だ。

 遠藤の砥部焼きは、明快だ。
 砥部焼きの最大の特色である、抜けるような白磁の透明感持を生かしつつ、簡素で幽玄調を感じさせる陶芸は多くのファンを生み、育ててきた。また、彼の作品のほとんどが実用的な食器や花入れに限定されていることも特色であろう。今回の個展でも、近年彼がモティーフとして多用している「つき」や「つばさ」のシリーズが、高い完成度と繊細極まるバランスで配置されており、最終日に足を運んだ私にしても十二分に鑑賞を楽しめた。
 ただ、彼自身も告白するように、「歳をとったといえばそれまでだが、昔のような実験的陶器に魅力を感じなくなった」という現状はいかがなものだろう。今回も、会場の一隅に配せられた、壁面を衝動的に鋭利な刃物で引き裂いたかのようなヒビ(=断絶。 割れ目から聞こえる「声」 懐疑的なエロス)を持つオブジェ風の花活けを除いて、ほとんど昔のような実験的な素材が見られなかった。
 私は非常に強く印象に残っている。はじめて彼の工房(えんどう窯)にお邪魔した折、彼は丁度新作の窯上がりを心待ちにして時間を費やす日々であり、来客心ここにあらずといった塩梅だった。さりとて客に見せたい近作があるわけでもなく、私は当時付き合っていた彼女と二人、砥部の初雪でも降ろうかといううす寒い時節、底冷えするような土間に腰掛け、間の悪い時間を費やしていた。見かねた彼の両親が、玉川大学時代の卒業制作だの、彼の20代の修練時代の作品だの、山というアルバムを持ってきて、私に見せた。中に一つ、ムーミンの「ニョロニョロ」を思わせる、身の丈ほどのオブジェの写真があったから、私が「これはいいと思う」といつものように知ったような事を言っていると、彼の親父さんは、「本人も若つくりの焼き物の中で、それが一番気に入っているようだ」と言った。私は、彼が男根をつくったのだと思った。男根の象徴を、というのではない。また、男根のオブジェをつくったのでもない。彼が「男根そのもの」を土から作ろうとしたことに感動したのだ。だから、「こういうのがもっと何本もあればいい」と言ったら、「何本もあったんです。でも、割れたり色々して、残ったのは数本しかなかった」と答えた。私はその時に頷いていた。草間弥生のような情熱を彼に感じていた。それは、もしかすると、病的な執着かもしれない。
 その頃の彼の作品は女性の陰部や男性の生殖器をモティーフに取り入れたものが多く、私が素直にそれを褒めると、「ほら、男って尖ったものや突き出しているものにカッコよさを感じるじゃないですか?」と彼ははにかんで言っていた。繰り返しになるが、私は男性器や女性器のモデルに飯を盛る事を褒めるのではない。そんなことは下らない。下品だし、低俗な遊びだ。ただ、性器そのものに飯を盛って食う、ということ、その行為、その日常を遠藤が夢想したことが素晴らしいと思っている。
 結局、彼の近作から二点を買って帰った。どちらも個人的には今ひとつと思える出来だが、仕方あるまい。これに加えて、昔買った高皿の写真も載せておく。
 彼の今後にも期待する。

 なお、彼の作品はネットでも購入できる。
 アートギャラリー「イヴ」さんのリンクを貼っておくので、どうぞ。遠藤君にしたら、要らぬ世話を焼いたかもしれない。失礼した。愛媛の方は窯元(「えんどう窯」 伊予郡砥部町北川毛307-3)まで是非どうぞ。そっちの方が安い。
 彼は来年、50になるそうだ。
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# by ecrits | 2005-12-10 06:00 | 友人

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅲ)

 次に、キュビスムにおける異次元の解釈に言及する。それにあたり、まず、異次元の大まかな定義を示しておこう。以下の本文でとりあげる異次元とは-旧来の芸術がこの言葉を理解したように-特別な場合を除いては、四次元のことを指していると解釈されたい。四次元(異次元)に対しては、通常二つの説がある。この概念を区別すると以下のようになる。

 ① ユークリッド的四次元空間
 ② 空間と時間を結び付けて捉える四次元空間

 後者に関しては、すでにキュビスムの方法論との関係を示しておいた。むしろここで重要なのは、キュビスムにおける四次元の解釈が、後者だけにとどまらず、ユークリッド的四次元空間にも拡張されていることだ。その根拠を示すために、キュビスムの芸術家であるマックス・ウェーバーの文章を引用しよう。

 造形芸術において四次元というものがあると私は信じているが、それは同時にあらゆる方向に向かう空間度の、大々的で、圧倒するような感覚の意識と説明できるだろう。その存在は既知の三つの計測によって与えられる〈中略〉それは万物の莫大さであり、理想的な計測である。

 注目すべきは、第一に、ウェーバーの文章において、四次元が三つの計測によって認識されると主張されていることである。ここでの三つの計測とは、「縦」「横」「高さ」の概念、つまり三次元内の知覚形式である。したがって、「既知の」という表現から推察すると、四次元はこれら三つの概念とは別のものであることが示唆されていると解釈してよい。このウェーバーの四次元の解釈が、①に対してもまた及んでいることが理解されよう。また、第二に「圧倒するような感覚」や「万物の莫大さ」「理想的な計測」など、四次元を感覚的に、そして理想的な超越性として表現していることにも着目しておこう。
 しかしながら、第一の点と第二のそれとは、端的に言って矛盾している。前者の主張では、四次元は「既知の」概念と異なるもの(定義では不可視なもの)として想定されているにもかかわらず、後者においてそれは、感覚において、つまり三次元の認知形式において-たとえそれが超越的で莫大なものとしても-知覚可能とされているからである。この矛盾は、ウェーバー自身が「三つの計測によって与えられている」-つまり三次元において計測可能であることを意味している-という一文で、すでに語っていることでもある。実は、この“知覚しえないものの知覚”という矛盾は、②の四次元の定義との関連にも、そのまま当てはまるのである。理念的に時間は視覚化しえない。しかし、キュビスムはその時間に視覚的な処理を施しているのである。
 この矛盾の原因は何か。その読解の鍵となるのが、次のウェーバーの文章である。

 形態が強力であればあるほど、夢やヴィジョンは強烈となる。真正の夢のみが構築される。思考すら物質である。それは、ありとあらゆるもの-真正の物、地球、物質-の物性である。

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↑アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)。写真家。画家ジョージア・オキーフの夫。ヨーロッパとアメリカのモダンアートを交流、紹介する画廊主の一面もあった。
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# by ecrits | 2005-12-08 05:09 | 論考

煤払い -道後温泉-

   赤燈を 猫、駆け抜ける 師走かな
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# by ecrits | 2005-12-08 00:33 | 発句

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~ (ⅱ)


   第1章 『大ガラス』以前

 キュビスムはピカソ、ブラックを中心に1907年から1914年頃にかけて起こった芸術運動で、その特徴は、対象への多角的な視点を同一画面に描き出すという手法にある。一般的にその発展過程は、「初期時代」「分析時代」「総合時代」の3期に分けられる。初期においてはセザンヌの影響が色濃く、対象を球体、円錐体、円筒体によって扱うのが主流であった。それに対して、中期においては次第に対象の分析解体に向かい、画面に平面的に組み込んでいった結果、展開図のような構成的なものへと変化し、後期になると、その抽象的方向をたどりながらも、再び具体物的な表現(パピエ・コレ-一般にはコラージュ)となった。
 キュビスムの方法論の独自性を芸術史の角度から見てみると、主観的な対象把握にそれを見出せることがわかる。複数の視点を圧縮し、同一体として画面に固定させた結果としての対象の形状は、いうまでもなく日常的な視点からはかけ離れたものになり、つまりそれは、対象の同定に主観的な視点を導入したことに他ならないのである。主観的な対象把握とは、そのような意味で解釈されたい。ただし、視点に対するこのような主観の介入そのものは、何もキュビスムが創始であるわけではない。例えばフォービスムでは、フォルムの単純化と色彩自体のリズムを強調する表現を採用していたし、極端に言えば、主観的な対象の変化の跡があらわれない芸術作品はかつて存在していなかった(これは、所謂ハイパーリアリズムにおいても同様である。ハイパーリアリズムは究極的な対象の現実感の表現を目的としているが、それを従来の主観的な表現と照らし合わせた場合、突き詰めた客観性が、逆にある意図をネガティヴに反映していることがわかる)。では、この文脈を引き継いで、なおも特筆すべきキュビスムの独自性とは一体何だろうか。
 少し結論を急ごう。前述したように、キュビスムは複数の視点による対象の同定方法を採用した。これは言い換えれば、視点の移動の効果を画面に印したことになる。そして視点の移動は瞬時には遂行し得ない。ここにおいて、時間の概念の介入は明白なものとなる。つまりキュビスムの主観的な対象把握の本質は、「主観」に時間の概念を付与したことに他ならないのである。これは、色彩の主観的表現などとは性格を決定的に異にしていると思われる。
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# by ecrits | 2005-12-06 05:00 | 論考

芸術における異次元 ~マルセル・デュシャン『大ガラス』を中心に~


   導入

 芸術作品の主題として、異次元の概念は古くから様々な作品にとりあげられてきた―ただし、「異次元」の定義を、極めて曖昧なものとして保留する限りで。というのも、史実において「次元」の大まかな数学的定義が登場したのは、19世紀から20世紀前半にかけてであり、それに対し芸術の歴史は遥か数万年前の壁画にまで遡行することができるからである。よって、その時代に「次元」に関する具体的な知識をその時代の人々が持っていたとは考えられない。しかし、私の解釈では、にもかかわらず冒頭の一文に、何かしらの正当性があるように思われる。
 そしてその根拠を、第1章において20世紀初頭に起こった芸術運動、キュビスムによる「異次元」の受容から遡行的に求めようと試みる。第2章では、サブタイトルに示したようにマルセル・デュシャンの『大ガラス』作品の解読―次元問題を中心にした―を行う。そして第3章では、『大ガラス』以後の、シュルレアリスムにおける「異次元」の解釈について取り扱うことにする。ただし、ここで注意されたいのは、この『大ガラス』を中心にした区分を、次元問題の一般論として一概に恣意的なものであると決め付けるのは時期尚早である、ということだ。我々のパースペクティヴにおいて、この峻別は―本文中で明らかにされることだろうが―ある程度の妥当性を持ち合わせていると思われるからである。
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# by ecrits | 2005-12-03 05:34 | 論考