他者と倫理

 柄谷行人が昔(というか今も)、我々は未来の他者に対する責任がある、と度々口にしていたことがある。このことは一体何を意味しているのか。また、「未来の他者」とは具体的に何のことか。最近、連日のように「倫理」という事柄を考えている私にとって、この考え方は意外に重要な示唆を与えている。ではまず、この「未来の他者」という言葉を反芻しながら、少しずつ「倫理」へ向かって問題を解きほぐしていくことにしよう。

 例えば、私が私怨から誰かを殺めたとする。このとき、人を殺めたことの「責任」はどこに存在するのか。これは、いうまでもなく「私」にある。私はそのために刑事的な処罰を受けなければならないし、単純な話、刑務所に入らなければならない。このことは、“器物を損壊した”“人に不利益になることをした”“人の心を傷つけた”場合でも問題の大小はあれ、原罪という根幹は同型である。
 少し問題を押しすすめて考えてみよう。我々の「責任」は果たして現存している人やモノに対してのみ課せられているのだろうか。
 エコロジー運動を例にとろう。産業革命以後、我々がエネルギー資源として活用してきた化石燃料は、このままのペースで消費すれば、石油は約34年、天然ガスは約55年で枯渇するという試算が発表されている。しかし、現在50歳の人間が放っておいてもゆうに30年持つ石油資源が存在するのに、わざわざ「地球に優しい」運動をする必要があるだろうか。これは、当然と言えば当然過ぎる疑問である。
 ここにおいて発生する「責任」の形が「未来の他者への責任」である。つまり、「未来の他者」とはより具体的には、われわれの子供や孫を指している。50歳の人間が死ぬまでに消費する資源については問題ない。しかしながら、それでは自分の子供たちが使う資源が消尽してしまう。だからこそ、代替エネルギーの開発やリサイクルの運動は彼らにとって有用である限り、我々に課せられている「責任」の問題なのだ。

 イマニュエル・カントは、このような未来的に問題を持ち越す課題を「統制的理念」と呼んだ。彼の「恒久平和」という統制的理念が1945年に国際連合を生んだことはあまりにも有名な史実である。
 ここで注意しなければならないのは、このように仮定された「他者」や「理念」には神秘的な色彩が一切ない、という事実である。エコロジーや恒久平和の例が示すように、それらは将来的に達成されるべき課題なのであって、単純な妄想とはレヴェルを異にしている。それらの「理念」がいかに現実と乖離していようとも、それは達成されなければならないという地平において、まさに“恒久的”に働き続ける。繰り返すが、これは単純なスローガンではない。それどころか、非常に計画的に我々を拘束する足枷なのである。

 「倫理」という難しい概念は、この地点において考え直さなければならない。
 統制的理念は我々ではない人々(つまり他者)に向けて放たれた光芒である。我々は常に現在的な存在でしかありえないので、倫理の問題を持ち出すことは、発信者の倫理的イデオローグにすぐさま組み替えられてしまう。他者に対する責任。このことこそが唯一「倫理」を可能にしているのだ。これは逆説的な倫理の不自由さである。倫理という問題を道徳的なものかのように考えている連中は、このような基本的な思考すら不徹底なのである。
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# by ecrits | 2005-09-08 02:27 | 思想

堀秀彰への手紙

 君がニューヨークへ行くという話を聞いて、僕はこの2.3日心がまるで落ち着かない。折からの神経症と、何か捉えどころのない不安感で、心が締め付けられるような気持ちがする。僕にその理由を聞かれても困る。どうせ君は僕がうつむきながらボソリと話し始めるのを、苦笑いの弱った顔で見ているのに決まっているのだから。
 堀君。だから僕は、君が日本にいないこのスキを狙って、君への手紙を書くことにする。書き始めるとキリがないこの手紙の顛末を、どうか知らずにおいてくれ。これは僕からのお願いだ。

 君という存在が僕の心に根を張り始めたのは、まだ柏nardisが以前の場所にあった頃、だからもう7年も昔のことになる。僕が女を口説くことと、美味いモルトをたらふく飲むことと、意味なく人を扱き下ろすのに必死になっていた頃、君はまだ早稲田で真面目な学生をやりながらピアノを弾いていた。「お互いに若かったな」- この感慨を吐くのにもう充分過ぎるほど、君も僕も大人になってしまった。あれは、特にライヴじゃなかった日だった気がする。君は小峯さんと談笑しながら、その年の手賀沼ジャズフェスティバルの話をしていた。君はブッカーズを飲んでいた。憎たらしいガキだな、と思ったよ。接さずとも、君の横溢する才能が距離を隔てて伝わってきた。君が帰った後、小峯さんが「あれが堀秀彰だ」と僕に紹介した。当時から天才の名をもって知られていた君のことを知ったのはあれが最初だった。
 思えば、長い付き合いになるな。nardisでライヴをやるときは何故かタイミングが合わなかった。最後のほうに僕がちょこっと顔を出すだけで、君は入り口の僕を一瞥して、ソロの間の悪さに唇を噛んでいた。最初は君も僕を厄介に思っていたんだろう?なんとなく伝わってたよ。爾来、店で会うときもチラッと目を合わせるくらいで、格別話もしなかった。僕も君のピアノに惚れていたことは否定しないが、僕は僕で、まだ「言葉」の絶対性を信じていたかったんだな。僕は思想の畑。君は音楽の畑。垣根があるように思っていた。
 俺が「思想工房ECRITS」をはじめて、『ECRITS』の創刊号を100部手作りして、ほうぼうの飲食店やホールなどにおいてくれるよう頭を下げまわっていたときだったかな。しかし、クリスマスだったような記憶もあるんだ。そのへんの時季があいまいだが、nardisで久しぶりに再会した。俺は君とはじめてふたりっきりで膝をつき合わせてしゃべった。小一時間くらいだったかな。その時はじめて君が俺と同じ年だということを知ったんだ。戦慄が走ったね。何がどうということはない、君には一生かかっても敵わないとハッキリ悟ったよ。同世代の天才にrespectを感じたのは後にも先にもあれが最後だ。君が知ってのように、俺の傲慢さは並ならないものがある。たいていのヤツには負けない仕事をしてきたと今でも思っている。でも、それは違っていたんだな。
 率直に言おう。君がいたから頑張ってこれたんだ。今でもその思いに変わりはない。

 君と女を取り合うようにして、僕は松山に引っ込んだ。それっきりだ。もう、あの女性とは続いていない。気が変わったら連絡してみたらどうだ。僕はこの土地にまだ暫くはいるつもりだから。
 だんだん湿っぽくなっていくな。僕はこういうのが一番嫌なんだ。嘘を言っている気分になってくる。今日のように神経を乱している日は特に。

 最後に一つ。君がやった広瀬潤次と吉田豊のトリオの演奏は今でも僕の神経症の緩和剤になっている。きっと、これからもそうだろう。それから、一番君に言いたいこと。「どうか体を大切にし給え」。
   愛憎の堀秀彰へ。最大の感謝を込めて。
   2005/9/3


   堀秀彰氏のHP→http://horinky.withmusic.jp/
   nardisのHP→http://www.hi-ho.ne.jp/k-nardis/shop_top.html
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# by ecrits | 2005-09-03 05:25 | 友人

岩井俊二『四月物語』を再発見する/2003.4.7 『others』初出

 先日、親しい友人たちの呼びかけで花見に参加する機会を得た。まだ肌寒さが残る4月初旬の日曜、それまで連日のように雨が降っていたその中晴れの昼下がりに、われわれは松山市の城東、石手川の土手沿いに集合した。
 市内を東から南に切断するように流れるその川は、源流を奥道後の静かな湧き水に保ち、今日でこそ上流に広大なダムを有しているものの、かつては白鷺が羽を休める優雅な流れを見せていた。住宅街がまばらに点在する中流域に差し掛かるころの千本桜は桜の見所で、毎年この時期になると大勢の花見客が訪れる。
 格別な挨拶もないまま、いつ終わるとも知れぬ宴の席の途中で、私は何気ない心持で舞い散る桜吹雪を見、ふと岩井俊二の『四月物語』を思い出していた。

 『スワロウテイル』(96年)、『リリイ・シュシュのすべて』(01年)などの作品で知られる映画監督岩井俊二が製作した、大学進学のために上京してきた18才の少女の物語。
 主人公の楡野卯月(松たかこ)は北海道の旭川出身。上京し、慣れない新生活の日々をスタートさせる。ある日、彼女は学生同士の自己紹介で「なぜこの大学を受けたのか」と質問され、答えに詰まってしまう。彼女には高校時代に想いを寄せていた先輩がおり、彼女は彼の進学先である武蔵野大学を受験し、合格したのだ。
 やがて彼女は山崎先輩(田辺誠一)がアルバイトをしている書店「武蔵野堂」を尋ね、再開を果たし喜びに胸を躍らせることとなる。

 作品としては、この作者の繰り返すモチーフ「美しき恋愛物語」に終止したストーリーで、そもそも批評に値する作品ではない。作品序盤に執拗なまでに展開される、大量の桜吹雪が舞い散るシーンの反復は、新生活の始まりを予感させ、それなりに華麗ではあるが、やはりイメージの弱々しさを露骨に感じさせるカット割り(特にタクシーの運転手に道を尋ねる引越しのトラックが通り過ぎ、そこに白無垢姿の花嫁が乗り込むシーンなど)によって、いかにも貧相な映像に仕上がってしまっている(その貧相なイメージを意識して演出しているのだから余計にタチが悪いというべきか)。
 私はこの作品を渋谷の映画館のレイトショーではじめて観た。その時は『リリイ・シュシュのすべて』の先行公開の会場であり、『リリイ』を含む3本立ての一本として観たように記憶している。『リリイ』が、あまりにも貧しく、いや、その貧しさこそが今日という現代のリアルであることの証明だったのに対し、この作品は言わば「終わりなき自意識」の貧しさに貫かれている。柴門ふみは、この作品を「ひたむきな少女の正しさ」が描かれているとして絶賛しているが、もはや阿呆としか言いようがあるまい。この作品を賞賛することも批判することも、あまりにも易しいのだから。

 『四月物語』は終わることのないモノローグである。そこには感傷以外が入り込む余地はない。
 作中、先輩が一足先に進学した武蔵野大学という名称から「武蔵野」という記号を取り出し、「それ以来武蔵野は私の特別な場所になった」とつぶやく少女は、国木田独歩の『武蔵野』を愛読書にし、まだ見ぬ武蔵野の風景(それはまさに自意識特有の「どこにもない場所」として機能している)を夢想する。日露戦争後、日本近代文学の起源ともなった『武蔵野』という風景が実は自らの「内面の発見」(柄谷行人)であったこととそれは、おそらく無関係ではありえないだろう。

 しかし、かく言う私自身もそのような不純な動機によって上京のために進学を決めた一人であってみれば、これは他人事ではない。“外部=他者”を理解できないこと、それが若さということなのかもしれない。
 新高校生、新大学生、とにかく「内面という観念の曖昧さ」(小林秀雄)に足元を掬われている間に、噛み締めておきたい映画。


  ※この文章は、作者が運営していた情報配信企画『others』で、2003年4月7日に公開されたものに、作者自身が加筆・訂正を施したものです。
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# by ecrits | 2005-09-01 04:24 | 批評

井原秀和との対話 ~セクシュアリティの実践~

 8月28日深夜、仕事で松山に来ていた井原秀和氏と久しぶりに話をする。実に4年ぶりの再会である。以前、思想工房ECRITSの設立の折に世話になって、その後私の強い推薦で諮問委員になって頂いたが、その後の井原氏の多忙を極めるスケジュールと政治的な問題とがあいまって、結局、一緒に活動することはほとんど出来なかった。

 約束の時間に15分遅れで到着した私は、当日、松山大学城北キャンパスで行われていた日本テレビ『24時間テレビ 愛は地球を救う05´~生きる~』のキャンペーンの手伝いをしていたこともあって、例の黄色いTシャツにジーンズという格好であったが、そのような私の格好を見て「メディアに安易に擦り寄ろうとする黒川は不愉快だ」とのたまった井原氏は、自身のブランド“hide&skin”のチビTと称するにはあまりに窮屈な2分丈の青いプリントTシャツを胸部だけ鋏で切り抜いた、安っぽいアダルトビデオを思わせる上着に、荷物検査で説明するのに苦労したと言う発泡ビニールで作られた、雲をイメージした黒っぽいシースルーの奇妙なオブジェ(本来装飾のための展示品だったという)に強引に穴を開け、足を通しただけという奇抜なファッションで、私を待ち構えており、いったいどちらが周囲から不愉快に見えているのか疑う様相だった。
 ともかくも4年ぶりの親交をあたためながら、私たちは松山市中心部ロープウェイ街にあるカフェバー「ニライ・カナイ」で深夜まで談笑した。今も昔も「トランスセクシュアリティ」の実践者を自認する彼だったが、その道のりは決して平坦なものではなかった。性的には「ホモ」「変態」と世間から蔑視され、本業の服飾デザイナーとしてはキワモノの烙印を押され、業界から相手にされなかったという。「ツブシにかかりにさえしてもらえなかった」という告白にはあまりに切実な思いが込められている。以前から、「変態にさえなれないヤツを気にすることはない」と再三彼に助言を試みていた私だったが、今日の彼の活躍を見てみれば、その励ましも決して無駄ではなかった、というところだろうか。
 古酒の泡盛を、バッカスの化身とでも形容したいような勢いで平らげる井原氏は、どこで覚えてきたのか、バタイユばりの否定神学をべらんめえ調で語り続ける。区役所の戸籍謄本を発行する際、無意識に書類の「男・女」の欄の中点に印を付けてしまったというフロイト的錯誤を得意げに語る彼に私は突然噛み付いた。

 君は中性性などと得意がっているけれども、そんなものは存在しない。あったとしても、それは巧妙に偽装された似非男根主義なのだ。本当の意味での「トランスセクシュアリティ」を実践したいのなら、「性」自体を否定しなければ駄目だ。具体的には、ペニスを切断し、男性優位主義、女性優位主義ともに批判する場所に立たなければ。セックスがある「かのように」(森鴎外)ふるまい、発言し、パフォーマンスしなければ。安易な(性の)ニヒリズムが俺は一番嫌いなんだ。ニヒリズムは絶対性の否定みたいに思われているけど、それは違う。実は絶対性の要求なんだ。そのような反復は断固として抵抗しなければいけない。

 青じそ焼酎という普段飲みなれない酒に既に飲まれかけていた私は、こう彼をまくし立て、全否定するに至った。私の面罵を黙って聞いていた彼は、やがてぽつりと「なにはともあれボクは実践しているから」とこぼした。確かに、彼のパフォーマンスは日本の性差別を多少ならずも解消している。児童暴行などの問題点はあれど、変態性欲やフェティッシュ(奇妙なことに、この文脈でのフェティッシュというバタイユ的用法が日本で定着しつつある。フランス語の原意を重視するのならこのような性の広がりはむしろクイアーと呼ばれるべきだろう。)の視点も徐々に変わりつつある。実践者としての彼の働きに私は敬意を表している。少しハッとさせられた私は、彼に言い過ぎを素直に詫び、その後も看板を大きく越える午前7時過ぎまで共にしたたかに飲んだのだった。
 翌日(というよりも明けたその日だが)、10時(!)の飛行機で帰京した井原氏から、携帯電話にメールが届く。家で廃人のようになっていた私は、いまさらながらに彼の「実践者の神経の図太さ」に自分との隔たりを感じ、羨ましく思いさえするのだった。

 「チンチン切ってみようかなん はぁと」


井原秀和(円奴s)氏のHP→http://www.studio-k2.com/~maru/index2.html
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# by ecrits | 2005-08-30 04:03 | 友人

槇原敬之をめぐって/2005.8.26 『邂逅』初出

   君は誰と幸せなあくびをしますか/槇原敬之

 後に、初期三部作と呼ばれるシリーズの第二段として製作されたこのCDアルバムには、彼の名を一躍有名にした『どんなときも』をはじめとする全11曲が収録されている。『どんなときも』は織田裕二、的場浩司、坂上忍、和久井映見ら当時の新鋭俳優をキャスティングし、フジテレビジョンによって製作された『就職戦線異状なし』(1991年6月22日公開)のタイアップ曲として、現在までにミリオンセールスを達成している。
 このことを特筆するのは、彼が「恋愛を歌うこと」がひとつのイデオロギーとなり得た時代に出発したことを確認するためである。高度成長期からバブル末期にあたる60年代後半~90年代にかけての共通意識として、青春の不安は大人になることの不安であり、失恋による自意識的な悔恨は、同情と共感を同世代で共有(!)することが可能だった。現代思想的に言い換えれば、「戦後」後からバブルまでの世相は、社会における「象徴界」(ラカン)の力を衰えさせる前段階であり、この時期において今日ほどポストモダン的な状況は徹底化されていなかったのだ。このような時代背景に色濃く影響された彼の作品群の完成度は、同時代の他の作品と比較しても水際立っている。「もてない男」の自意識的な肖像画を描くことは、当時既に消尽され尽くしてしまっていた、私小説という伝統芸の延長としても、文化的に許容されていたのである。

 だが後年、彼が自らをゲイであると告白したことにより、このような視線は180度転換してしまう。爾来、多くのライターによって、過去の私小説的な作品の数々を同性愛的に読む試みがなされてきたが(それらの多くが、いたずらに偏見に満ちたものであったことをここでは確認しておくべきであろう)、やはりそれは、異性愛を前提とした創作であったことが検証されている。
 彼は自らの作品を恋愛によってドラマタイズし、また同時にそれらの経験について偽証し続けることによって、相容れない二つの要素‐この場合ホモセクシュアルとヘテロセクシュアル‐に対しいずれも否をとなえる姿勢を発見した。これは非常に分裂病的な状態といえる。しかし、この方法(自己パラドクス)によって、彼は主観に依拠することのない、「外部」の気味の悪さのようなものをつかむことに、一時、奇跡的に成功していた。そこには苦悩に満ちた、そして何か迫力のある危機意識がある。私が彼を評価するのはこの点だ。メッセージではない。
 無論、このようなたくらみによって意図的に作り出された外部が、果たして「他者」に触れているかどうかは、甚だ疑問である。むしろ、そこは「他者」から遠く離れた地点といってよい。彼はこのあと初期の物語を否定するかのように、自己の内面世界やドラッグに傾倒していくのだが、やはりそこにも「他者」を発見することはできなかった。彼は恋愛を作らなくなって後、必然的に停滞してしまう。これこそが自意識という「孤独地獄」(芥川龍之介)に堕ちた男の末路なのだ。
 大切なことは、もっと率直に、そしてもっと素直に、考え、語られなければならない。

CDアルバム/1991.9.25発売
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# by ecrits | 2005-08-26 20:42 | 批評

はじめに ~簡単な自己紹介~

   ecrits(1979~ )

 平成初期に活動した学生運動の推進家。批評家。「思想工房ECRITS」設立者、初代代表。全日本学生自治会総連合(全学連)特別参与。「発言する学生の会」顧問。

 1979年愛媛県松山市に生まれる。
 1997年二松学舎大学に入学。上京。
 翌98年、従来の政治的・文化的・宗教的主義や思想を超越した“知の横断線”を掲げ、私設サークル「思想工房ECRITS」を設立。初代代表に就任。機関紙『ECRITS』を発刊。
 99年、同名のサークルを他大学など3箇所に設立。大学の垣根を越え、学生同士が広く交流し、創造性溢れる知的言説を発信する場所を作った。

 専攻は日本近代文学・現代思想。
 自身も批評を中心に『ECRITS』に多く寄稿。カント論考からサブカルチャー論、現代美術、建築、舞踏、セクシュアリティに関する諸問題まで、幅広く評論活動を展開した。
 思想工房ECRITSの設立後、様々な学生運動・市民活動に精力的に参加するが、2000年1月民族派団体の襲撃を受け、一時、代表職を離れる。同年JR鶯谷駅前で起きた革労協反主流派による左翼内ゲバの殺傷事件に関与したとして、自ら代表を辞任。以後は諮問委員に名を連ね、間接的に支持を続けた。

 主な運動に、明治大学新校舎設立反対デモ。ライジングプロダクション追訴。歴史修正主義を検討する会。東京都における化学物質による生態毒性の実態調査報告。イラク戦争に反対する学生達の声明等。
 一水会をはじめとする右翼プロパーの団体とも積極的に交流、対談し、活動を共にすることもあったが、活動家・言論家としては終生リベラルな姿勢を貫いた。
 2000年二松学舎大学を退学。以後、郷里松山に戻り、自己の創作活動に専念する。

 主要論文・創作に『芥川龍之介のねじれ』(「邂逅」第五号)。『始まらない物語‐近代化するポップス』(「陽と波」創刊号)。『クイアーであることの要請』(「壱号式劇団報告」)。『マルセル・デュシャンの方法』(「ECRITS」創刊号)。『カントとスピノザ』(「ECRITS」第二号)。『フェティッシュはいかに可能か』(「ECRITS」第三号)。『BRUSHSTROKES!』(「ECRITS」臨時増刊号)など多数。

 ※ちなみに「ecrits」(「えくり」とお読み下さい)は、当ブログ用のハンドルネームです。団体名、雑誌名に関しては、そのまま事実に相違ありません。
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# by ecrits | 2005-08-25 01:12 | そのほかのこと